ラテン語な日々

〜「しっかり学ぶ初級ラテン語」学習ノート〜

第3回課題(2021.7.17)

練習問題5-5

Sōlus meārum miseriārum est remedium.
(ソールス メアールム ミセリアールム エスト レメディウム

Ter.Ad.294

テレンティウス「兄弟」

 

【学習課題】

名詞と形容詞1 3 第1・第2変化形容詞

 

【語彙と文法解析】

動詞は est、不規則動詞sumの三人称単数現在。〜である。

Sōlus は第1・第2変化形容詞 sōlusの男性単数主格。一人の(彼は ille)※ille は省略された指示代名詞

meārum は所有形容詞 meusの女性複数属格。私の

miseriārum は第1変化名詞miseriaの女性複数属格。苦悩

remedium は第2変化名詞 remedium の中性単数主格(呼格)または対格。ここでは主格補語。救済

 

【逐語訳】

Sōlus((彼は)ただ一人の者として) meārum(私の) miseriārum(苦悩の) est(である) remedium(救済).

 

【訳例】

 彼だけが私の苦悩の救済である。

 

(文法を楽しむ)

学習課題は、第1・第2変化形容詞でした。

これは、第1変化名詞、第2変化名詞のように変化するので、とりあえず 第2変化の男性名詞の語尾 -us を持つ Sōlusがポイントでしょう。

-us は 第1・第2変化形容詞の男性単数主格の語尾なので、たぶん、主語となる名詞(男性単数主格)を修飾しているはず、と思い、男性名詞が出てくるか、気に掛けておきます。

次は、語尾 -ārum が2つ、目に付きます。これは、第1変化名詞の複数属格のかたちですね。(第2変化名詞の複数属格は、-ōrumでした。)

所有形容詞のうち、meus(私の)、tuus(あなたの)、suus(彼の 彼女の etc.)は第1・第2変化形容詞のように変化するので、meārum は meus の女性複数属格です。つまり、かかる先の名詞が女性複数属格となるので、語尾のかたちが同じ、次の meseriārum を修飾していそうです。「私の」

一方の miseriārum の単数主格は 普通に miseria で、第1変化名詞の女性複数属格のかたちです。「苦悩の」

動詞は est で不規則動詞 sum の三人称単数現在。「〜である」

最後に、remedium は語尾 -um から第2変化の中性名詞のようです。中性単数主格(呼格)または対格ですが、動詞が対格を求めないので、ここでは主格。文の補語で、主格補語ですね。「救済」

で、結局、Sōlus のかかる男性名詞は出てきませんでした。ここで動詞 est が三人称単数であることに着目すれば、文の主語は指示代名詞 ille(彼は)で、この主語が省略されているのでは、と推測できます。

ところで、Sōlus は「一人の」を意味する形容詞ですが、「一人の(彼は)」では少し納まりが悪いですね。それで何か形容詞の用法があるのかなと教科書を確認すると、「形容詞の副詞的用法」というのがありました。直訳では、「ただ一人の者として彼は救済である」となるようです。つまり「彼だけが救済である」ですね。

 

課題文の出典は、テレンティウス「兄弟」の第三幕第一場の一節。今回も『テレンティウス ローマ喜劇集5』(西洋古典叢書)を府立図書館で借りてきて読んでみました。「兄弟」は山下先生のご翻訳です。

この作品は、今回で3回目。子どものころ好きだった藤山寛美松竹新喜劇の世界そのもので、山下先生のご苦労の賜物と思いますが、現代の私たちにとっても、大変親しみ安い、楽しい読み物になっています。

この場面は、やや込み入っていて、兄アエスキヌスは、弟の恋人を女衒から少々荒っぽいやり方で奪い返したのですが、それを伝え聞いたアエスキヌスの婚約者の母ソストラタは、心配しつつも、娘の将来を託したアエスキヌスを信じて、奴隷のカンタラと話し合っている場面です。

ソストラダ「今となっては、あの人だけが、私の悲しみの救い主なのです」

カンタラ「・・・あんな間違いがあったにせよ、相手として見れば、立派で気だてもよく、またあれだけの家柄のご出身です。」

ソストラダ「・・・神様、どうか、あの人が無事でいてくれますように。」

ちなみにですが、「私の悲しみ」というのは、ソストラダ自身の結婚生活の、決して幸福とは言えない境遇からきている言葉のようです。「兄弟」の前章の「義母」から話が続いているのですね。

 

 

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第1回課題(2021.7.3)

練習問題3-5

Poēta puellīs rosās dōnat.
(ポエータ プエッリース ロサース ドーナト

 

【学習課題】

名詞と形容詞1 1 第1変化名詞

 

【語彙と文法解析】

動詞は dōnat ですね。第1変化動詞 dōnō の 直説法・能動態・現在、三人称単数で、「彼(彼女、それ)は贈る」
(dōnō, dōnās, dōnat, dōnāmus, dōnātis, dōnant

Poēta は 第1変化名詞 poēta の男性・単数・主格で、文の主語。「詩人は」
(poēta, poētae, poētae, poētam, poētā, poētae, poētārum, poētīs, poētās , poētīs)

puellīs も 第1変化名詞 puella の 女性・複数・与格または奪格。ここでは dōnat の間接目的語で、与格。「少女らに」
(puella, puellae, puellae, puellam, puellā, puellae, puellārum, puellīs, puellās, puellīs)

rosās は第1変化名詞の代表格 rosa の女性・複数・対格。dōnat の直接目的語で、「バラを」
(rosa, rosae, rosae, rosam, rosā, rosae, rosārum, rosīs, rosās, rosīs)

 

【逐語訳】

Poēta(詩人は)puellīs(少女らに)rosās(バラを)dōnat(贈る).

 

【訳例】

詩人は少女らにバラを贈る。

 

(文法の楽しみ)

これは、英語の「This is a pen.」のような文なのでしょうね。第1変化名詞の格の違う名詞をぼんぼんぼんと並べることで、格変化によって、名詞の文の中での役割が示される、という説明のための文です。

「これはペンです。」という文は、普通はないのと同じで、この文に特段のメッセージはないのかも知れませんが、でも何となくこれからラテン文学の世界に一歩を足を踏み入れるんだなぁという感じが良く出ている文ですよね。

ラテン語名詞は、必ず性・数・格を持ちますが、日本語には、もともと名詞に性がなく、数に厳密さもなく、名詞そのものは変化せず、助詞によって他の語との関係を示す日本語とは、まったく文法が違います。

とは言え、私たちが学校で「未然・連用・終止・連体・仮定・命令」云々と動詞の活用などを学んだ国文法は、明治時代に、英米、とくにラテン語文法にならって体系化したものらしく、実は私たちの日本語も、ある意味、ラテン語二千年の歴史に大きな影響を受けているわけですね。

例えば、以下は、日本初の近代的国語辞典といわれる『言海』(大槻文彦、1889-91年刊)の復刻版(アマゾン Kindle版)にみられる記述です。(文語調を現代文にして、少し意訳しています。汗)

 

天爾遠波(てにをは)

 

(A)が、の
上に名詞を承けて下は動詞に係り、その動作を起こす所の名詞を特に挙げて示す。例えば、「誰が言う」「君が思う」「鶯の鳴く」の如く、動作を起こすは「誰」「君」「鶯」
〇これをラテン語にいわゆる名詞のNominative case.(主格)であるとするのは妥当とも言えず、日本語では主格は「鳥、鳴き」「花、落つ」など、てにをは無しで用いる。これに「が」「の」を加えて「鳥が鳴く」「花の落つる」と言えば、それを加えただけの意味は起こるのだが。

(B)の、が
名詞と名詞との関係を示す。(一)所有の意を示す「人の物」「君が世」など(二)由る所、係る所を示す「桜の花」「梅が香」「世の中」など
〇以上二つは、英語の Possesive, 又はラテン語のGenitive case.(属格)にあたる

(C)に
動詞の動作のいたるところを示す。(一)相対するものを示す「人に与う」「師に問う」
〇これはラテン語の格のDative.(与格)にあたる

(D)を
事物を処分する意を示し、必ず他動詞に係る。「書を読む」「字を記す」
〇これはラテン語のAccusative.あるいは英語のObjective case(対格)にあたる

(G)より、から
二つの間に移りゆく意を示す。「敵より奪う」「彼方より来る」「明日から若菜摘もうと」「明けぬから船を引きつつ上れども」
〇これはラテン語のAblative case.(奪格)にあたる

 

と、こんな感じです。これで呼格以外のラテン語の名詞の格が揃っています。これらの助詞は、のちに格助詞として整理されたようですね。

まあ、主格のところなど、いかにも無理に西洋の文法に日本語をあてはめていった感が出ていて、それはそれで面白いです。

いや、むしろ、漢語をはじめ、オランダ語、英語、ドイツ語、ラテン語と次々と他言語を吸収して、文化、芸術、政治、科学のあらゆる分野を母国語で表現し学べる環境を営々として築き上げた、先人達の気の遠くなるような努力に、感謝と尊敬の念を感じます。

「種まく人」ではないですが、そうした先人達の残してくれた資産を次の世代に引き継げるよう、少しでも貢献できたら、なんてことを感じさせてくれるのも、ラテン語学習なんですよね。

 

 

 

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第38回課題(2021.6.19)

練習問題40-3

Quandō dēnique nihil agēs?
(クアンドー デーニクエ ニヒル アゲース?

Cic.D.O.2.24

キケロー「弁論家について」

Cicero: de Oratore II

 

【学習課題】

様々な構文 3 疑問文

 

【語彙と文法解析】

動詞は agēs で、ああ第2変化(videō, vidēs, videt, ...)ね、と思いきや違いました。第3変化動詞 agō の直接法・能動態・未来の2人称単数でした。悔しいので調べてみると、第3変化と第4変化の直接法・能動態・未来は、-am, -ēs, -et, -ēmus, -ētis, -entと変化するようでした。「あなたは行うだろう」

nihil は不変化名詞で、中性・単数の主格と対格のみ。ここでは agēs の目的語で対格。「無、何もないこと」。nihil agēs で「あなたは何もないことを行うだろう」「あなたは何も行わないだろう」

Quandō は時を問う疑問副詞で、「いつ〜のか」

dēnique は副詞で、「結局」

 

【逐語訳】

Quandō(いつ〜のか)dēnique(結局)nihil agēs(あなたは何も行わないだろう)?

 

【訳例】

結局いつあなたは何も行わないのか。

結局いつあたなは何もしなくなるのか。

 

(古典の鑑賞)

キケロー「弁論家について」第2巻の一節でした。今回は『弁論家について』(大西英文訳、岩波文庫)を図書館で借りてきて読んでみました。上下巻の2分冊となっていて、上巻は第1巻・第2巻(1〜56章)、下巻は第2巻(57〜90章)・第3巻となっています。

凡例によると、本書の章立ては、Janus Gruter版キケロー全集(1618年)の区分によるもので、本文の5〜15行毎に施される、より細かい区分はAlexander Scot版キケロー全集(1588〜1589年)に由来する、ということです。

テキストの練習問題には、ほぼすべてに出典が記されていますが、最初はこの章立ての数字で探してみて、あれ?ないぞと思ったりしましたが、テキストの出典は概ね後者の区分になっていますね。(と言いつつ、今回も迷いました。笑)

さて、「弁論家について」からの課題にあたったのは初めてなので、こういうときは、だいたい解説から読んで、作品の背景を調べるのですが、大西先生の解説があまりに熱っぽいので、まずそちらに圧倒されました。まるで、キケローの熱が乗り移ったかのようです。

「高雅、高尚で、一見長閑なこの清談が、実は、凄まじい「ローマの現実」のただなかで行われた、という事実に改めて気づかされる」

「感動とは、そのような状況下でそのような清談をなしうる人間と、そのような人間精神に対するある種の賛嘆の念−このような人間もまたいた、いや、いるのだ、というある種の畏敬の念−から来るそれでもあるのか」

「凄まじい「現実」の中で、人間精神がどこまでの高みに飛翔しうるのか、いや、人間精神が何ものにもとらわれることのないどこまで「自由」な境地を逍遙しうるのか、二重の意味でのその証−本作品の価値の一つはそこにある」

ここで書かれた「ローマの現実」については、あえて触れませんが、本書を初め、キケローの数々の作品で繰り広げられる談論、清談が、かくも「熾烈な政治闘争と動乱」のただ中で著されたものであること、そのことは、キケローその人とその作品に対する評価の上で、決して見落とされてはならないのだ、ということですね。

それから二千年の歴史を経て、今日、私たちは、キケローたちの目指した、言論の自由、法による支配を、当然のように享受していますが、弁論をある種の暴力(権力といってもいいですが)で蹂躙することは、今日でも簡単なことです。

もしも、そうした「現実」を眼前にしたとき、私たちはキケローのように、弁論によって闘えるでしょうか。いや、闘わなければならないのだと、キケローは今も、語りかけてくれているのですが・・・。

 

 

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第36回課題(2021.6.5)

練習問題38-2

Nōminibus mollīre licet mala.
(ノーミニブス モッリーレ リケト マラ

Ov.A.A.2.657

オウィディウス「恋愛術」

Ovid: Ars Amatoria II

 

【学習課題】

様々な構文 1 非人称構文

 

【語彙と文法解析】

動詞は licet でしょう。第2変化動詞 licet -ēre の直説法・能動態・現在 三人称単数で、+不定法で「〜することが許されている」

mollīre は動詞の不定法ですね。第4変化動詞 molliō -īre の不定法で、「和らげること、緩和すること」

Nōminibus は第3変化名詞(中性)nōmen の複数・与格または奪格。ここでは動詞が間接目的語をとらないので奪格(手段の奪格)で「名前によって」。

mala は目的語でしょう。おそらく単数ではないので、verbum, verbaの変化だとして、malum で辞書引き。第2変化名詞 malum の中性・複数・主格(呼格)または対格。ここでは対格で「欠点を」

非人称構文で、licet は主語が不定法、人が与格ですが、「〜にとって」の与格は省略されています。つまり一般論なので、特に誰ということはないのでしょう

 

【逐語訳】

Nōminibus(名前によって)mollīre(和らげることが)licet(許されている)mala(欠点を).

 

【訳例】

名前によって欠点を和らげることが許されている。

 

(古典の鑑賞)

オウィディウス「恋愛術」第2巻の一節でした。今回も『恋愛指南ーアルス・アマトリアー』(沓掛良彦岩波文庫)を図書館で借りてきて読んでみました。

何冊か一緒に借りたのですが、この本の装丁、表紙が「マイナデスを誘惑するサテュロス」という名のポンペイ壁画(一世紀)となっていて、少し刺激的と思われたのか、本を重ねるときに、すっと下の方に入れて(隠して)くれました。かえって、こちらが恥ずかしくなりますよね。(笑)

さて、「恋愛術」からの課題は5回目、この課題文も2回目です。最初の頃は、単語は辞書の丸写し。感想文は、解説の紹介だったり、ストーリーを追ってみたりでしたが、最近は、作品そのものを少し楽しめるようになってきたような気がします。

もともと、日本文学からして、素養の無い私、ラテン文学でもないのですが、まあギリギリ、ギリシャ哲学に関心があったので、何とか興味を持てるかなと頑張っているうちに、『牧歌・農耕詩』(河津千代訳)に出会い、河津先生の『詩人と皇帝』を読んでみたあたりから、ラテン文学そのものに、興味が持てるようになってきたようです。

で、この作品ですが、ネットではあまり評判がよろしくありません。まあ、オウィディウスに興味がなければ、読まなければいいわけですが、何かの拍子で読まれた方が、なんだかただの猥雑な作品じゃないかと感じられるのも、わかります。

一方の代表作の『変身物語』がある意味、難解な作品である分、古典作品としての「ありがたみ」を感じられるのに対して、この作品は「わかりやすい」ので、ある種ホッとするというか、コメントしやすい作品、という面もあるでしょうね。

とはいえ、この作品、ローマ文学が歴史に誇る恋愛教訓詩です。話が脱線しますが、映画「プラダを着た女」で、強烈な個性を放つ編集長が、編集者を目指す主人公のファッションへの無知を小気味よいテンポで喝破するシーンがありますよね。世に「セルリアン説法」とも呼ばれているようですが、私のお気に入りの名シーンです。

説明すると長くなりそうですが、要は世の中に広く流通し、何気なく目にしているものでも、デザイナーによって緻密に計画され、巨大な生産・流通システムを経て、最後にあなたの目にふれたものなのよ、あなたは知らないでしょうけど、というお話です。

最近、よく思うのですが、この2千年も前の作品を、どうして私が読んでいるのか、不思議ですよね。それは、歴史の淘汰に耐えた作品、吟味され、さまざまに解釈され、後世の名だたる思想家、芸術家、社会の指導者たちに計り知れない影響を与えてきた作品なのですよね。

だから何だということもないのですが、ラテン文学にふれること、ラテン語を学ぶということは、その歴史の重みを感じること、なんじゃないかなと。

まあ、そういうことも、考えてみると、また作品を見る目も変わってくるかも知れません。昔、朝日新聞に「世界 名画の旅」という連載があったのですが、レジェの「余暇」という作品について「人物の表情なんかに大した意味はない。レジェが苦しんだのはコントラストだ。」と語られる文脈がありました。

オウィディウスにとっても、アルス・アマトリア=恋の技法は単なる素材に過ぎなかった、というと言い過ぎでしょうか。オウィディウスが腐心したのは、恋の歌を格式あるエレゲイア詩として確立すること。

そして、オウィディウスの名を後世に留めたのは、まさに、この作品で、それまでの「恋愛詩」とは異なる新たなジャンル、ローマ恋愛詩の正統、エレゲイア詩形を打ち立てた、という功績によるのです。

目の前に普通にあるものの、真の輝きが見えてくる。それが、学ぶということの意味であり、楽しさでもありますね。

 

 

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第34回課題(2021.5.22)

練習問題36-1

Ōrandum est, ut sit mens sāna in corpore sānō.
(オーランドゥム エスト ウト シト メンス サーナ イン コルポレ サーノー

Juv.10.356

ユウェリナース「風刺詩」

Juvenal X

 

【学習課題】

動詞5 2 接続法の複文での用法(1) 名詞節、形容詞節での用法

 

【語彙と文法解析】

主文の動詞は est。不規則動詞 sum の直説法・能動態、3人称単数現在。動形容詞の非人称表現のかたちで、「〜なされるべき」

従属節の動詞は sit。不規則動詞 sum の接続法・能動態、3人称単数現在。「存在しますように」

ōrandum は 第1変化動詞 ōrō「懇願する、祈る」の動名詞か動形容詞。ここでは中性・複数+estの形で、動形容詞の非人称表現。ut + 接続法で「ut 以下のことが祈られるべきである」

mens は第3変化名詞(i幹)mensの女性・単数・主格。「精神、心」

corpore は第3変化名詞 corpus の中性・単数・奪格。「身体、肉体」

sāna は第1・第2変化形容詞 sānus の女性・単数・主格(呼格)または中性・複数・主格(呼格)か対格。「(精神的に)正常な、健全な」。ここでは、mensにかかって女性・単数・主格。

sānō は sānus の男性または中性の単数・与格か奪格。ここではcorpreにかかって、中性・単数・奪格。「健康な」

in は前置詞で、+奪格 で「〜の中に」

 

【逐語訳】

Ōrandum est, ut(〜と祈られるべきである)sit(存在しますように)mens(精神が)sāna(健全な)in(〜の中に)corpore(健康な)sānō(肉体).

 

【訳例】

健全な精神が健康な肉体の中に存在しますようにと祈られるべきである。

健全な肉体に健全な精神が宿るようにと祈るべきである。

 

(古典の鑑賞)

ユウェナーリス「風刺詩」10巻の一節でした。今回は、『サトゥラェ−諷刺詩』(藤井昇訳、日中出版)が古本で手に入ったので、こちらを読んでみました。

この課題文は、「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」という言葉が実は誤りである、というエピソードを添えて紹介されることが通例のようで、さらにこの「実は誤りである」という解釈も斯く斯く然々の理由で「本当は的外れである」というような解説まであるようです。

この課題文は2回目なのですが、私も、前回は「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」というのはかのナチスのスローガンとして広まったというような紹介をしたと記憶しています。

10巻の部分だけでも、読み通すのは骨が折れますが、この藤井訳、なかなかこなれていてとても読みやすいです。そもそも文庫本と違い、字が大きいので助かります(笑)。それで、何とか、ざっと読んで味わってみたのですが、文脈的には、藤井訳の「健全なる肉体に健全なる精神が宿るようにと希(ねが)うべきである」という訳に、不自然さはないと感じました。

もちろん、健全なる精神のために健全なる肉体を、というような文脈はどこにもなく、この一節は、ユウェナーリスの生きた時代に広く影響を持っていた、ストア哲学や「真の」エピクロス哲学が主張するごとく、「死への怖れを持たず、生命あるひとときを「自然」の恵みのうちに最後のものと考え、どんな労苦にも耐えられ、怒ることを知らず、何ものも求めず、ヘラークレースの艱難辛苦をば、(贅沢もて鳴りしアッシリア最後の王)サルダナパロスの性楽や夕食や羽布団より良しとする強き精神を求めたまえ」「まことに美徳を通じてのみ、平静なる人生の路は開けている」(藤井訳)という主張につながるものと思われます。

ここで健全なる肉体とは、自然の理にかなった身体(と心)の有り様であり、健全なる精神とは、徳を最高善として求める心(と身体)の有り様のことでしょう。前者に重心をおけばエピクロス哲学、後者に重きをおけばストア哲学、というわけです。

「健全なる肉体に健全なる精神が宿るようにと希(ねが)うべきである」ということは、基本的にストア哲学なのでしょうね。

ところで、上記のくだり、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」に通ずるものがありますね。「サウイフモノニワタシハナリタイ」という願いは、まさに「健全なる精神」を求めるストア哲学の「希(ねが)い」そのもの、だったのでしょうか。

文法的には、接続法が学習課題なので、「sit」をどうみるかという点がポイントでしょう。まず、接続法なので「意思、願望」を表現しています。「〜しますように」

また、この場合のsumは、繁辞(〜である)ではなく、存在詞(ある)でしょう。動詞の主語は mens。主格補語の可能性もあるかも知れませんが、「(われわれが)健全なる肉体の中で、健全なる精神になりますように」と、少々文意が通りにくいです。

Ōrandum est も重要な要素でしょう。これは動形容詞の非人称表現で、「ある行為がなされねばならない」という意味を表しています。英訳は「ought to」や「should」となっているようですが、わざわざ「〜することが正しい」「〜した方が良い」というからには、何か思想的な背景のある主張がなされるはずです。

で、虚心坦懐に眺めれば、希うべきは、「健全なる精神が存在するように」ということなので、スポットライトはやはり「健全な精神」の方にあたっていると思われます。

この辺り、まさに「ここぞと言うときのラテン語文法」と言えるかも知れませんね。

「直訳は誤訳の元」という主張も見かけましたが、ここはラテン語学習のブログなので、まずは直訳。これが誤訳を避けるための本則、であります。

 

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第25回課題(2021.3.13)

練習問題27-4

Aliēnīs perīmus exemplīs: sānābimur, sī sēparāmur modo ā coetū.
(アリエーニース ペリームス エキセムプリース、サーナービムル、シー セーパラームル モド アー コエトゥー)

Sen.Vit.1.4

セネカ「幸福な人生について」

Seneca: On the Good Life

 

【学習課題】

動詞4 直接法・受動態(2)完了、未来完了、過去完了

 

【語彙と文法解析】

perīmus は 不規則動詞 pereō の直接法・能動態・現在、1人称・複数。「我々はだめになる」

sānābimur は第1変化動詞 sānō の 直説法・受動態・未来、1人称・複数。「我々は治療されるだろう」

sēparāmur は第1変化動詞 sēparō の直説法・受動態、現在、1人称・複数。「我々は分けられる」

exemplīs は第2変化名詞 exemplum の中性・複数・与格または奪格。ここでは奪格で「先例によって」

coetū は 第4変化名詞 coetus の男性・単数・奪格。「集団」

Aliēnīs は 第1・第2変化形容詞 aliēnus の通性・複数・与格または奪格。ここでは奪格。「他人の」で exemplīs にかかる。

modo は 副詞で「ただ…だけ」

sī は 接続詞で「もし…ならば」

ā は 前置詞で「〜から」

 

【逐語訳】

Aliēnīs(他人の)perīmus(我々はだめになる)exemplīs(先例によって): sānābimur(我々は治療されるだろう), sī(もし〜ならば)sēparāmur(我々が分けられる)modo(ただ〜だけ)ā(〜から)coetū(集団).

 

【訳例】

我々は他人の模倣によってだめになる。ただ単に集団から離れるだけで、我々は健康になるだろう。

 

(古典の鑑賞)

セネカ「幸福な人生について」の一節でした。今回も『人生の短さについて』(茂手木元蔵訳、岩波クラシック)で読んでみました。

今回の課題文は1節にありますが、全体で28節あり、言わば冒頭部分。で、結局何が言いたいんだろうと思い、通読してみたのですが、これが思いの外辛かったです。

3節で一応、幸福な人生に到達するために必要な目標と行程について、以下のごとく、結論が述べられています。

<目標>=何を行うのが最善であるか
 〇我々は自然の定めに従う。自然の法則と理想に順応して自己を形成すること

<行程>=自然に適合した生活であるためには、次の方法以外にはない
 〇心が健全であること
 〇心が忍耐強く、困ったときの用意ができていること
 〇何事にも驚嘆せず、運命に従うが、その奴隷にならないこと

これで「これ以上蛇足を加えなくても理解されるであろう・・・」と締めているので、「後25節ありますけど?」という感じなのですですが(笑)、次の4節ではまた「以上とは別の言い方で、われわれの言う善を定義することもできる」と、切り口を変えながら、淡々と語り始めるので、今回は、ラテン語学習らしく?、この切り口が変わっていくところの、ちょっと口癖のような「それゆえ」という訳語に対応する単語を拾ってみました。

1節 itaque…「まず念頭におくべきことは、われわれの努力すべき目標は何か」、ergo…「何より大切なことは、先を行く群れの後に付いて行くような真似はしない」

2節 ergo…「われわれが知ろうとするのは、一体何を行うのが最善であるか」

3節 ergo…「幸福な人生は、人生自体の自然に適合した生活である」

4節 itaque…「最高の善とは偶然的なものを軽んじ、徳に喜ぶ心である」「それは心の不屈な力であり、物事に経験が豊かであり、身振りが静かであるとともに、人情に厚く、交際にも思いやりのあること」

5節 ergo…「幸福な人生とは、公正で確実な判断に基づく安定した不変の生活」

6節 ergo…「幸福な人は、判断の正しくできる者である」「自己の生活の在り方を理性から委されている者である」

7節 ita…「瞬く間に来ては去り、自らを浪費することだけで死滅するものには、何らの実体の存することも不可能である」

8節 ergo…「幸福に生きるということは、自然に従って生きることである」、 Quare…「大胆にこう宣告してもよい—最高の善は心の調和である—と」「協調と統一が存するところには、必ずや徳が存するからである」

9節 itaque…「徳から何を求めるのか。徳そのものをである」「すなわち徳は徳以上に善いものをもっておらず、徳そのものが徳の価値なのである」「最高の善は、砕けることのない心の強さであり、識見であり、気高さであり、健全さであり、自由であり、調和であり、優美さである」

12節 ergo…「快楽を徳に巻き込むようなことはやめさせようではないか」

15節 ergo…「最高の善が登るべきところは、いかなる力によっても引き下ろされないところであり、苦痛も野望も恐怖も、要するに最高の善の機能を弱めるものは一切近づき得ないところでなければならぬ。そのようなところへ登ることができるのは徳だけである。

16節 ergo…「真の幸福は徳の中に存している」

まだ、この後12節ほど続くのですが、一応、論証は終わっていますよね。とりわけ、Quare で始まる8節の一文がクライマックス。概ね9節までが、骨太の主張のようです。

ちなみに、この後は、ergo が23節、24節、25節に1回ずつ見られるだけで、まるで別の機会に書いたもののようでした。

通読してみて、今回の課題文の「他人の模倣によってだめになる」という意味が何となく分かったような気がしました。

課題文の perīmus は「(人が)破滅する、だめになる」とかなり厳しい言葉ですが、これは刹那的な快楽が「自らを浪費することだけで死滅するもの(peritūrum)」であるという、皮相な快楽主義への批判へと、イメージ的につながっているようです。「他人の模倣」というのは、こうした「外部からの刺激」への追従、いわば快楽の奴隷となることの比喩かも知れませんね。

 

<気になるラテン語

セネカ「幸福な人生について」より〜

幸福な人生:beātus vīta

真の幸福:vēra fēlīcitās

最高善:summum bonum

最善:optimus bonus

最良の精神:optimae mentīs

心の調和:animī concordiam

徳:virtūs -ūtis, f, 第3変化名詞

快楽:voluptās -ātis, f, 第3変化名詞

自然:nātūra -ae, f, 第1変化名詞

精神:animus -ī, m, 第2変化名詞

先例:exemplum -li, n, 第2変化名詞

道理:ratiō, -ōnis, f, 第3変化名詞

模倣:similitūdō -dinis, f, 第3変化名詞

 

セネカ著作 年表】

道徳論集

「慰めについて」(37年〜41年)
「怒りについて」(41年)兄アンナエウス・ノバトゥス宛
「人生の短さについて」(49年)パウリヌス宛(ローマ食料長官)
「かぼちゃになった王様」(54年)
「賢者の不動心について」(55年)友人セレヌス宛
「寛容について」(56年)皇帝ネロ宛
「幸福な人生について」(58年)兄ガイオ宛(兄ノバトゥスの養子先の名)
「余暇について」(62年)同
「心の平静について」(63年)同
「善行について」(63年)年来の友アエブティウス・リベラリス宛
「神慮について」(64年)若き友人ルキリウス宛

道徳書簡と自然研究

「道徳書簡」(62年〜65年)同
「自然研究」(62年〜65年)同

悲劇作品

「狂えるヘルクレス」
「トローイアの女たち」
「ヒッポリュトゥス」
「オエディプス」
アガメムノン
「テュエステス」
「ポエニーキアの女たち」他

 

 

第27回課題(2021.3.27)

練習問題29-4

Dulce et decōrum est prō patriā morī.
(デュルケ エト デコールム エスト プロー パトリアー モリー

Hor.Carm.3.2.13

ホラーティウス「カルミナ」

Horace: Odes III

 

【学習課題】

動詞4 不定

 

【語彙と文法解析】

動詞は est で不規則動詞 sum の直接法・能動態・現在、三人称・単数。「〜である」

構文は、dulce と decōrum は prō patriā morī である、かな。逆に、prō patriā morī は dulce で decōrum である、かも。

とりあえず morī がキーになると思い、辞書引き。第3変化動詞B morior の不定法でした。「死すことは」で文の主語かな。

patriā は 第1変化名詞 patria の女性・単数・奪格。「祖国において」など。

prō は 前置詞 で +奪格で 「〜のために」など。ここでは、prō patriā で「祖国のために」か。

Dulce は第3変化形容詞 dulcis の中性・単数・主格(呼格)または対格。ここでは文の補語で主格。形容詞の名詞的用法。「甘い」「快い」

最初、副詞と思いました。副詞は基本、補語にならないかな。山下先生のコメント添えます。不定法は中性・単数で受けるんですね。

主語morīが不定法・現在なので、補語となるdulceは中性・単数で受けます。
decōrumも同様です。
例)Errāre hūmānum est. (間違うことは人間的である)のhūmānumは「中性・単数・主格」となります。

et は 接続詞で「そして」

decōrum は 第1・第2変化形容詞 decōrum の中性・単数・主格(呼格)または対格。ここでは文の補語で主格。「美しい」

 

【逐語訳】

 Dulce(快く)et(そして)decōrum(美しい)est(である)prō patriā(祖国のために)morī(死すことは).

 

【訳例】

祖国のために死すことは快くそして美しい。

 

(古典の鑑賞)

ホラーティウス『カルミナ(歌章)』の第3巻の一節でした。今回も『ホラティウス全集』(鈴木一郎訳、玉川大学出版部)を図書館で借りてきて読んでみました。

ウェルギリウスといえば「アエネーイス」、ホラーティウスといえば「カルミナ」と言われるくらいのホラーティウスの代表作です。全4巻ですが、1〜3巻が前23年に公表され、4巻は前14〜13年と少し時期がずれます。

世は、オクターウィアーヌスがローマ帝政の基盤を固めつつある時代。より大きくとらえれば、アクティウムの海戦に勝利(前31年)して、プトレマイオス朝に終止符をうった、ヘレニズムからパックス・ロマーナへの移行期です。

ヘレニズム時代は、言わばギリシャ文化の世界で、共和制ローマの時代から、カエサルをはじめ、ローマの指導者たちは、アレクサンドリアを訪れ、前3世紀には建設されていた図書館の膨大な量のギリシャ語の図書を眼前にして、覇権を広げるローマにふさわしい新しい文化の拠点として、ローマに図書館の建設を夢見たのでした。

前28年、完成した図書館には、ギリシャ語図書の部とラテン語図書の部があったそうですが、地中海世界の覇者となった帝政ローマにとって、ラテン語図書の充実が求められたのは、当然でしょうね。この時期、「ローマ建国史」(リヴィウス)、「事物の本性について」(ルクレティウス)、「アエネーイス」(ウェルギリウス)などローマ文学の巨星が一斉に登場したのも、偶然ではないでしょう。

実は、ホラーティウスの庇護者、マエケーナースはオクターウィアーヌスの参謀を務めた人物で、軍事のアグリッパ、外交・文化のマエケーナースと伝えられているのですが、マエケーナースの周りに出来た文人サークルには、ウェルギリウスをはじめ当時の文化人が集い、ホラーティウスウェルギリウスらとの出会いを通じて、このサークルに参加することになったのでした。

カルミナは、こうしてローマ詩壇に活躍の場を得たホラーティウスの目を通して、激動期とも言える時代を、少し引いた目線で、やや面白がって見つめた詩人の作品として、とても魅力的な詩集となっていて、ローマ史とともに学ぶといろいろ発見がありそうです。

さて、課題文の方ですが、カルミナ第3巻の2の一節で、第3巻の1から6までは、特にアウグストゥスの強い意向による、とも言われ、6歌とも市民にローマの伝統的な倫理観を説く、やや官製の説教調の、いわばホラーティウスらしくない詩調となっているのが、個人的には残念なところではあります。

まあ、しかしながら、カルミナから6年後、ホラーティウスは「ローマ百年祭」の讃歌を依頼され、詩壇の頂点に上り詰めたのでした。

マエケーナースは、その死に際して、皇帝に「私のことのようにホラーティウスのことをよろしく」と頼んだそうです。マエケーナースは、ホラーティウスにもう一度、「諷刺詩」の時代のような詩を、書いて欲しかったのではないかなと、ふと思いました。

 

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ホラティウス全集」796ページの圧巻です