ラテン語な日々

〜「しっかり学ぶ初級ラテン語」学習ノート〜

第17回課題(2019.10.26)

練習問題32-3

Omnia mēa mēcum sunt.

Sen.Const.5.6
Seneca, Dē Constantiā Sapientis
セネカ「賢者の不動心について」

Seneca: de Constantia

 

【語彙と文法解析】

omnis -is(男性・女性同形)-e(中性), adj(形容詞)① (sg)全体の ② (pl)すべての, あらゆる.(以下略)
omnia は第3変化形容詞 omnis の中性・複数・主格(呼格)または対格。ここではmēaに合わせて主格。

meus -a(女性)-um(中性), adj poss(所有形容詞 (所有代名詞 ))① 私の, 私に属する, 私が所有する.(以下略)
mēa は第1・第2変化形容詞(所有形容詞 (所有代名詞))meus の 中性・複数・主格(呼格)または対格。ここでは、主格で文の主語。

egō pron pers(人称代名詞)(一人称)私.
mē は 人称代名詞 egõ の一人称・単数・対格または奪格。ここでは奪格。

cum prep(前置詞)〈+abl〉① ...といっしょに.② ...を備えて, ...を身に着けて.(以下略)
mēcum は 前置詞 cum+人称代名詞のとき、cum を人称代名詞の後につけた形。

sum esse不定法) fuī(完了), intr(自動詞)
Ⅰ (存在詞)① ⒜ 存在する, ある, 居る(以下略)
Ⅱ (繋辞として)① ...である (以下略)
sunt は、不規則動詞 sum の直説法・能動態・現在・三人称・複数形

 

【逐語訳】
Omnia(すべての)mēa(私のものは)mēcum(私とともに)sunt(ある).

 

【訳例】

すべての私のものは私とともにある。

 

(古典の鑑賞)
セネカ「賢者の恒心について」5節の一節でした。今回は『怒りについて 他二篇』(兼利琢也訳・岩波文庫)を図書館で借りてきて読んでみました。

賢者の恒心、つまり不動心ということですが、賢者は悪の影響をいっさい受けない、というストア派の有名な主張らしく、今回の課題「私のものは皆、私のもとにある」(兼利訳)は、その論証の提示を終えたあとの「実例」として持ち出される、哲学者スティルポーンの言葉でした。

戦によって、国破れ、家財を失い、娘さえ奪われたスティルポーンが、敵に尋問に対して、いわば、あなた方は勝ち誇っているが「私のもの」は何も奪われてはいない、つまり敗北していない、と言っているわけです。

究極の負け惜しみとも言えますが、これはこの時代のストア派が好んだパラドックスで、賢者は悪を持たないので、悪の影響を受けることがない。つまり、原理的に悪と相互作用できない。悪が作用できるのは、束の間、外部から到来し私の所有した、不確かで覚束無いものに対してだけで、したがって「私のもの」=善きものは、依然として私のもとにある、というある種の逆説なんですね。

わが愛娘を思うと、その超然とした姿勢に圧倒されるわけですが、セネカの生きた時代、「共和制崩壊から元首制の完全な定着という時代変化の中で(中略)説得本来の機能の発揮の場が失われ」ていく中、修辞学は次第に「意表を突く逆説的修辞で」弁論に勝つための技巧化していった、と解説にありました。

そう言えば、最近、「ディベート術」「議論に勝つ」などと冠した本が目立つようにも思えます。昨今の政府の国会軽視とも言える姿勢も、まさに「説得本来の機能の発揮の場」を自壊させていくものかも知れません。う〜ん。

少々、興奮して、長くなりました。最近よく、以前に課題で学んだ「Facit indignātiō versum.(義憤が詩を作る)」という言葉を思い出します。「正しく憤る」ことの大切さも、もっと強調されても良いのでは、と思うこの頃です。