ラテン語な日々

〜「しっかり学ぶ初級ラテン語」学習ノート〜

第31回課題(2020.6.27)

練習問題31-5

Optima quaeque diēs miserīs mortālibus aevī prīma fugit.
オプティマ クゥアクゥエ ディエース ミセリース モルターリブス アェウィー プリーマ フギト)

Verg.Geo.3.66-67
ウェルギリウス「農耕詩」

P. VERGILI MARONIS GEORGICON LIBER TERTIVS

 

【学習課題】

代名詞2・その他 副詞

 

【語彙と文法解析】

optimus adj superl 最もよい[すぐれた], 最高の.
optima は 第1・第2変化形容詞 optimus の女性・単数・主格(呼格)か中性・複数・主格(呼格)または対格。ここでは diēs にかかり女性・単数・主格。

quisque quaeque quidque(pron), quodque(adj), pron, adj 各人, おのおの, だれでも, 何でも(しばしば sg が pl 扱いされる).
quaegue は形容詞的代名詞 quisque の女性・単数・主格または女性中性・複数・主格または中性・複数・対格。ここでは女性・単数・主格で、diēsにかかる。

diēs -ēī, m(f)① 日, 一日 (以下略)
diēs は 第5変化名詞 diēs の男性女性・単数・主格(呼格)か男性女性・複数・主格(呼格)または対格。ここでは女性・単数・主格。

miser -era -erum, adj ① (人が)不幸な, みじめな, あわれな (以下略)
miserīs は 第1・第2変化形容詞 miser の通性・複数・与格または奪格。ここではmortālibusにかかり、男性・複数・与格。

mortālis -is, m 死ぬべき者, 人間.
mortālibus は第3変化形容詞 mortālis の通性・複数・与格または奪格。ここでは男性・複数・与格。

aevum, 《古形》aevus -ī, n ① 永遠 ② 生涯.(以下略)
aevī は 第2変化名詞 aevum の中性・単数・属格。diēsにかかる。

prīmus -a -um, adj superl ① 先頭の, 最前部の, 先端の.② 第一の (以下略)
prīma は第1・第2変化形容詞 prīmus の女性・単数・主格(呼格)。ここでは形容詞の副詞的用法で fugiōにかかりる。動詞の主語 diēsに連動して主格。

fugiō -gere fūgī, intr, tr Ⅰ (intr)① 逃げる, 逃走する, 走り去る (以下略)
fugit は第3変化動詞 fugiõ の三人称・単数・現在形。

 

【構文】

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【逐語訳】

Optima(最良の)quaeque diēs(日々は) miserīs(哀れな)mortālibus(死すべきものにとって)aevī(生涯の)prīma(一番のものとして) fugit(逃げ去る).

 

【訳例】

哀れな生き物にとって生涯最良の日々はいち早く逃げていく。

 

(古典の鑑賞)

ウェルギリウス「農耕詩」第3巻 「家畜」の一節でした。今回はめずらしく、最近古本で手に入れた愛蔵書、河津千代訳の『牧歌・農耕詩』(未来社)を読んでみました。1981年刊のこの本は、まだ活版印刷。糸かがりの上製本です。手に取るだけでうれしくなりますね。

河津訳の特徴は、訳注の詳しさ、というか翻訳の息づかいが聞こえてきそうな註書きです。解説は巻末ではなく、巻頭に。解説というより、ひとつのエッセイの様でとても楽しめます。懐かしい淀川長治さんの映画紹介といえば近いでしょうか。これからおもしろそうな話が始まるぞ、という感じです。

さて、「農耕詩」ですが、マエケーナースがこの教訓詩を書くようウェルギリウスに勧めた背景について、河津氏はイタリア農業の衰退、特にポンペイウス海上封鎖でローマが食料不足に陥っていたことをあげています。しかし、ウェルギリウス自身は農業の経験がなかったので、そこは持ち前の学習と研鑽によって、当時すでに十分に整理され、出版もされていた農業の手引書などに学びつつ、7年の歳月をかけて書き上げたようです。

時は流れ、ようやく作品が仕上がった頃には、すでに海上封鎖は解かれ、シチリア・エジプトから十分な小麦が供給されて、当面の食糧問題は解決していたので、「農耕詩」の出版は、時機を逸してしまったわけですね。

まあ、河津氏自身、書かれているように、マエケーナースが時局の農業危機の打開のために、どこまで真剣に「農耕詩」に期待していたかは疑わしいですが、河津氏の以下の指摘は面白かったです。

そもそも、当時は、広大な土地に、大勢の奴隷を使い、オリーブ、葡萄から牧畜、養魚まで多角経営を行う大農業の流れにあったようですが、ウェルギリウスの詩には奴隷は一人も出てこない。農民は「自ら手を固くして働く農民」であり、「神に祈り、自然を観察し、ある時は自然と戦い、ある時は自然に身を委ねて、法外な富や名声を求めず、しかも誇らかに生きてゆく。そのような農民を、ウェルギリウスは愛情をこめてうたった」のでした。

ある意味、ウェルギリウスが農業の経営と技術のプロでなかったことで、「農耕詩」は実用的な農業の手引書ではなく、自然と人間という、普遍的なテーマを謳う詩となったのかも知れません。案外、マエケーナースの意図も、このあたりにあったのかな、とも思えてきます。

ウェルギリウスと言えば『アエネーイス』ですが、この「農耕詩」こそ彼の最高傑作とみる後世の評価もあるらしい。まさにウェルギリウスにとって、この作品とともにあった頃が「人生最良の日々」だったのでしょうね。

 

PS.

山下先生から、「農耕詩」は農業の指南書の形を借りて、実際には人間の生き方に焦点を当てた教訓詩、とのコメントをいただきました。マエケーナースの企図も、ウェルギリウスの情熱も、そこにあったのですね〜。

 

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