ラテン語な日々

〜「しっかり学ぶ初級ラテン語」学習ノート〜

第7回課題(2020.10.31)

練習問題9-1

Cibī condīmentum famēs est.
(キビー コンディーメントゥム ファメース エスト)

Cic.Fin.2.90

キケロー「善と悪の究極について」

Cicero: de Finibus II

 

【学習課題】

名詞と形容詞2 第3変化名詞

 

【語彙と構文分析】

動詞はest。不規則動詞 sumの三人称単数現在形。

Cibīはおそらく属格と推測して語尾-īから、第二変化名詞cibusとして辞書引き。「食の」。男性・単数・属格。condīmentumにかかるのでしょう。

condīmentumとfamēsはどちらかが主語、どちらかが補語。

condīmentumは語尾-umが第2変化名詞の中性っぽいので、そのまま辞書引き。「香辛料」。中性・単数・主格(呼格)または対格。

famēsは第3変化名詞か第5変化。そのまま辞書引きすると、「空腹」。第3変化名詞famēsらしい。女性・単数の主格(呼格)または女性・複数の主格(呼格)か対格。

「食の香料は空腹である」か「空腹は食の香料である」ですが、後者だと意味が通るので、主語はfamēs。動詞が単数形なのでfamēsは女性・単数・主格。

したがって、一方のcondīmentumは文の補語で、対格。

 

【逐語訳】

Cibī(食の)condīmentum(香辛料)famēs(空腹は)est(である).

 

【訳例】

空腹は食の香辛料である。

空腹は食べ物の味付けである。

 

(古典の鑑賞)

キケロー「善と悪の究極について」第2巻の一節でした。今回も『キケロー選集10』(本多・兼利・岩﨑訳、岩波書店)を図書館で借りてきて読んでみました。

キケローはホラーティウスセネカよりはエピクロス派に批判的なので、エピクロス派=快楽主義のような、ある種の俗説を議論のベースにしているところが、やや残念なところです。

実は、エピクロスの「快」は「苦しみ」の対語で、例えば「空腹」という苦痛が解消されるなら粗末な食事であれ、贅沢なご馳走であれ、「快」の量に差は無いとします。後は、質の違いだけであると。

ちなみに、課題文の「空腹こそが食べものの味つけである」というのは、訳注によると、ソクラテスの言葉ということです。

要は、どうすれば「苦しみ」から解き放たれ、平穏に生きることができるだろうか、という哲学的なテーマにどう応えるかなのですが、エピクロスはともすれば際限の無い苦しみをもたらす精神的なものより、自然や感覚に依拠して、苦しみを(ようやく)脱した状態=快が幸福の基準であるとしました。

エピクロスは、さらに踏み込んで、「もろもろの欲望のうち、充足されなくてもわれわれを苦しみへ導くことのないような欲望はすべて、必須ではない。」(主要教説)と説くのであって、むしろストイックとも言えるでしょう。

まあ、こうしたことは、キケローは本当は理解していたと思うのですが、エピクロスの主張は、最後に、こう帰結します。

「幸福と祝福は、財産がたくさんあるとか、地位が高いとか、何か権勢だの権力だとがあるとか、こんなことに属するのではなくて、悩みのないこと、感情の穏やかなこと、自然にかなった限度を定める霊魂の状態、こうしたことに属するのである。」

「隠れて、生きよ。」(エピクロス 断片 その2)

命をかけて、国家への献身が最高の善であると説いたキケローが、エピクロスを認めるわけにいかないのも、分かるような気がしますね。