練習問題23-4
Jūcundī actī labōrēs.
(ユークンディー アクティー ラボーレース)
【学習課題】
分詞・動名詞・動形容詞 1分詞(現在分詞・完了分詞・目的分詞・未来分詞)
【語彙と文法解析】
むずかしい。眺めているとどれも動詞っぽいですが、だいぶ悩んだ末、動詞はsumで略されているのかなと思いました。
actī も動詞っぽいので、これが分詞かなと思い、完了分詞と見込んで、第1・第2変化形容詞の変化(actus、actī、actō、actum、actō)から、actusで辞書引き。actus は 第3変化動詞 agō の完了分詞で、意味はいろいろありますが、「行う、果たす」あたりか。この辺りは答を知っているので(汗)。actī は 次のlabōrēs にかかるので、男性・複数・主格。完了分詞で「果たされた状態の」。
labōrēs は 形容詞 actī が修飾するので名詞で主格。labōrで辞書引き。辞書見出しはlaborでした。labōrēsは、第3変化の男性名詞 labor の複数の主格(呼格)か対格。ここでは、主格で「労働は、苦難は」
最後に Jūcundī は文の補語で、名詞か形容詞。可能性はいろいろありそうですが、形容詞の述語的用法として、labōrēs に性数格が一致するとすると、男性・複数・主格。第1・第2変化形容詞の複数・主格なら合いそうです。jūcundus で辞書引き。「快い、楽しい」
【逐語訳】
Jūcundī(快い)actī(果たされた状態の)labōrēs(労苦は)(sunt).
【訳例】
果たされた労苦は快い。
(古典の鑑賞)
キケロー『善と悪の究極について』第2巻32章の一節でした。今回も、「キケロー選集10」(永田・兼利・岩崎訳、岩波書店)を図書館で借りてきて読んでみました。第10巻は、選集の中でも人気が高いようで、古本でも高値がついていて、なかなか手が出ないです。
キケローのこの著作は、今回で5回目なので、ちょっとがんばって1〜2巻を通読してみたのですが、だいぶ辛かったです。(笑)
第1巻では、キケローの年下の友人でエピクーロス派のトルクワートゥスにエピクロス哲学の主張を語らせ、第2巻で、キケローがこれを吟味していくというかたちで、論を進めています。
まず、1巻ですが、当然と言えば当然ですが、キケローがエピクロス哲学の少なくとも倫理学について、おそらくは自然哲学についても、当代一流の理解をしていたんだな、と感じました。だからこそ、ローマを思い、祖国愛と名誉と賞賛を何よりも重んじ、自己犠牲を厭わない精神性を大切にしたキケローは、エピクロス派が多くの大衆の心をつかんでいたことに、強い危機感を持ったのでしょうね。
第2巻では、キケローによるエピクロス哲学の吟味が展開されます。エピクロスの「教説と手紙」などを読むと、キケローによるエピクロスの主張の紹介について「そんなこと書いてあったかなぁ」というのもいろいろありそうですが、アリスティッポス(快楽を最高善と説く)からヒエローニュモス(苦痛の不在を最高善と説く)、カルネアデース(快楽と徳の結合を説く)云々と続く、哲学史の紹介のくだりは、わかりやすかったです。
2巻も後半になると、エピクロスの吟味から離れぎみで、自身の最高善である「高潔」(正義、知性と理性、真実への欲求、秩序と節度)についての論を、さまざまな人物のエピソードの紹介を通じて展開し、君(トルクワートゥス)も、将来、しかるべき地位についたとき、最高善は快楽である、などとは言えないのだよ、と説きます。この辺りは、少々論が飛躍している感じですが、キケローの危機感は、十分に伝わってきます。
さて、課題文のくだりですが、「済んだ苦労は愉快なもの」という諺として登場しますが、文脈的に、論旨を追うことがむずかしかったです。
ただ、エピクロス哲学の吟味を始めるにあたって、エピクロスの「快」ἡδονή(へードネー)のラテン語訳は、主に肉体的な快楽を表現する voluptās(ウォルプタース)となるが、「快い」jūcundum(ユークンドゥム)という言葉もある、と紹介しているので、ここは「苦が快楽になる」と読んで、エピクロスを少々茶化している部分なんでしょうね。
その後、キケローの著作の影響か、エピクロス学派は消滅し、唯物論が再び歴史に登場するには、15世紀になってルクレーティウスの『事物の本性について』が発見されるまで、待たなければなりませんでした。
エピクロス哲学への謂われなき批判については、以下の文章がその回答となるでしょうか。
「それゆえ、快が目的である、とわれわれが言うとき、われわれの意味する快は、(中略)道楽者の快でもなければ、性的な享楽のうちの存する快でもなく、じつに、肉体において苦しみのないことと霊魂において乱されない(平静である)こととにほかならない」(メノイケウス宛の手紙より『エピクロスー教説と手紙』出隆・岩崎允胤、岩波文庫)
エピクロスは、「(苦がなければ)もはや快を必要としない」(同上)とも言っているので、「快」とは、精神的・肉体的苦痛からの解放という哲学的課題の象徴だったのかなと、私は思うのですが。