ラテン語な日々

〜「しっかり学ぶ初級ラテン語」学習ノート〜

第25回課題(2021.3.13)

練習問題27-4

Aliēnīs perīmus exemplīs: sānābimur, sī sēparāmur modo ā coetū.
(アリエーニース ペリームス エキセムプリース、サーナービムル、シー セーパラームル モド アー コエトゥー)

Sen.Vit.1.4

セネカ「幸福な人生について」

Seneca: On the Good Life

 

【学習課題】

動詞4 直接法・受動態(2)完了、未来完了、過去完了

 

【語彙と文法解析】

perīmus は 不規則動詞 pereō の直接法・能動態・現在、1人称・複数。「我々はだめになる」

sānābimur は第1変化動詞 sānō の 直説法・受動態・未来、1人称・複数。「我々は治療されるだろう」

sēparāmur は第1変化動詞 sēparō の直説法・受動態、現在、1人称・複数。「我々は分けられる」

exemplīs は第2変化名詞 exemplum の中性・複数・与格または奪格。ここでは奪格で「先例によって」

coetū は 第4変化名詞 coetus の男性・単数・奪格。「集団」

Aliēnīs は 第1・第2変化形容詞 aliēnus の通性・複数・与格または奪格。ここでは奪格。「他人の」で exemplīs にかかる。

modo は 副詞で「ただ…だけ」

sī は 接続詞で「もし…ならば」

ā は 前置詞で「〜から」

 

【逐語訳】

Aliēnīs(他人の)perīmus(我々はだめになる)exemplīs(先例によって): sānābimur(我々は治療されるだろう), sī(もし〜ならば)sēparāmur(我々が分けられる)modo(ただ〜だけ)ā(〜から)coetū(集団).

 

【訳例】

我々は他人の模倣によってだめになる。ただ単に集団から離れるだけで、我々は健康になるだろう。

 

(古典の鑑賞)

セネカ「幸福な人生について」の一節でした。今回も『人生の短さについて』(茂手木元蔵訳、岩波クラシック)で読んでみました。

今回の課題文は1節にありますが、全体で28節あり、言わば冒頭部分。で、結局何が言いたいんだろうと思い、通読してみたのですが、これが思いの外辛かったです。

3節で一応、幸福な人生に到達するために必要な目標と行程について、以下のごとく、結論が述べられています。

<目標>=何を行うのが最善であるか
 〇我々は自然の定めに従う。自然の法則と理想に順応して自己を形成すること

<行程>=自然に適合した生活であるためには、次の方法以外にはない
 〇心が健全であること
 〇心が忍耐強く、困ったときの用意ができていること
 〇何事にも驚嘆せず、運命に従うが、その奴隷にならないこと

これで「これ以上蛇足を加えなくても理解されるであろう・・・」と締めているので、「後25節ありますけど?」という感じなのですですが(笑)、次の4節ではまた「以上とは別の言い方で、われわれの言う善を定義することもできる」と、切り口を変えながら、淡々と語り始めるので、今回は、ラテン語学習らしく?、この切り口が変わっていくところの、ちょっと口癖のような「それゆえ」という訳語に対応する単語を拾ってみました。

1節 itaque…「まず念頭におくべきことは、われわれの努力すべき目標は何か」、ergo…「何より大切なことは、先を行く群れの後に付いて行くような真似はしない」

2節 ergo…「われわれが知ろうとするのは、一体何を行うのが最善であるか」

3節 ergo…「幸福な人生は、人生自体の自然に適合した生活である」

4節 itaque…「最高の善とは偶然的なものを軽んじ、徳に喜ぶ心である」「それは心の不屈な力であり、物事に経験が豊かであり、身振りが静かであるとともに、人情に厚く、交際にも思いやりのあること」

5節 ergo…「幸福な人生とは、公正で確実な判断に基づく安定した不変の生活」

6節 ergo…「幸福な人は、判断の正しくできる者である」「自己の生活の在り方を理性から委されている者である」

7節 ita…「瞬く間に来ては去り、自らを浪費することだけで死滅するものには、何らの実体の存することも不可能である」

8節 ergo…「幸福に生きるということは、自然に従って生きることである」、 Quare…「大胆にこう宣告してもよい—最高の善は心の調和である—と」「協調と統一が存するところには、必ずや徳が存するからである」

9節 itaque…「徳から何を求めるのか。徳そのものをである」「すなわち徳は徳以上に善いものをもっておらず、徳そのものが徳の価値なのである」「最高の善は、砕けることのない心の強さであり、識見であり、気高さであり、健全さであり、自由であり、調和であり、優美さである」

12節 ergo…「快楽を徳に巻き込むようなことはやめさせようではないか」

15節 ergo…「最高の善が登るべきところは、いかなる力によっても引き下ろされないところであり、苦痛も野望も恐怖も、要するに最高の善の機能を弱めるものは一切近づき得ないところでなければならぬ。そのようなところへ登ることができるのは徳だけである。

16節 ergo…「真の幸福は徳の中に存している」

まだ、この後12節ほど続くのですが、一応、論証は終わっていますよね。とりわけ、Quare で始まる8節の一文がクライマックス。概ね9節までが、骨太の主張のようです。

ちなみに、この後は、ergo が23節、24節、25節に1回ずつ見られるだけで、まるで別の機会に書いたもののようでした。

通読してみて、今回の課題文の「他人の模倣によってだめになる」という意味が何となく分かったような気がしました。

課題文の perīmus は「(人が)破滅する、だめになる」とかなり厳しい言葉ですが、これは刹那的な快楽が「自らを浪費することだけで死滅するもの(peritūrum)」であるという、皮相な快楽主義への批判へと、イメージ的につながっているようです。「他人の模倣」というのは、こうした「外部からの刺激」への追従、いわば快楽の奴隷となることの比喩かも知れませんね。

 

<気になるラテン語

セネカ「幸福な人生について」より〜

幸福な人生:beātus vīta

真の幸福:vēra fēlīcitās

最高善:summum bonum

最善:optimus bonus

最良の精神:optimae mentīs

心の調和:animī concordiam

徳:virtūs -ūtis, f, 第3変化名詞

快楽:voluptās -ātis, f, 第3変化名詞

自然:nātūra -ae, f, 第1変化名詞

精神:animus -ī, m, 第2変化名詞

先例:exemplum -li, n, 第2変化名詞

道理:ratiō, -ōnis, f, 第3変化名詞

模倣:similitūdō -dinis, f, 第3変化名詞

 

セネカ著作 年表】

道徳論集

「慰めについて」(37年〜41年)
「怒りについて」(41年)兄アンナエウス・ノバトゥス宛
「人生の短さについて」(49年)パウリヌス宛(ローマ食料長官)
「かぼちゃになった王様」(54年)
「賢者の不動心について」(55年)友人セレヌス宛
「寛容について」(56年)皇帝ネロ宛
「幸福な人生について」(58年)兄ガイオ宛(兄ノバトゥスの養子先の名)
「余暇について」(62年)同
「心の平静について」(63年)同
「善行について」(63年)年来の友アエブティウス・リベラリス宛
「神慮について」(64年)若き友人ルキリウス宛

道徳書簡と自然研究

「道徳書簡」(62年〜65年)同
「自然研究」(62年〜65年)同

悲劇作品

「狂えるヘルクレス」
「トローイアの女たち」
「ヒッポリュトゥス」
「オエディプス」
アガメムノン
「テュエステス」
「ポエニーキアの女たち」他