練習問題36-1
Ōrandum est, ut sit mens sāna in corpore sānō.
(オーランドゥム エスト ウト シト メンス サーナ イン コルポレ サーノー)
Juv.10.356
ユウェリナース「風刺詩」
【学習課題】
動詞5 2 接続法の複文での用法(1) 名詞節、形容詞節での用法
【語彙と文法解析】
主文の動詞は est。不規則動詞 sum の直説法・能動態、3人称単数現在。動形容詞の非人称表現のかたちで、「〜なされるべき」
従属節の動詞は sit。不規則動詞 sum の接続法・能動態、3人称単数現在。「存在しますように」
ōrandum は 第1変化動詞 ōrō「懇願する、祈る」の動名詞か動形容詞。ここでは中性・複数+estの形で、動形容詞の非人称表現。ut + 接続法で「ut 以下のことが祈られるべきである」
mens は第3変化名詞(i幹)mensの女性・単数・主格。「精神、心」
corpore は第3変化名詞 corpus の中性・単数・奪格。「身体、肉体」
sāna は第1・第2変化形容詞 sānus の女性・単数・主格(呼格)または中性・複数・主格(呼格)か対格。「(精神的に)正常な、健全な」。ここでは、mensにかかって女性・単数・主格。
sānō は sānus の男性または中性の単数・与格か奪格。ここではcorpreにかかって、中性・単数・奪格。「健康な」
in は前置詞で、+奪格 で「〜の中に」
【逐語訳】
Ōrandum est, ut(〜と祈られるべきである)sit(存在しますように)mens(精神が)sāna(健全な)in(〜の中に)corpore(健康な)sānō(肉体).
【訳例】
健全な精神が健康な肉体の中に存在しますようにと祈られるべきである。
健全な肉体に健全な精神が宿るようにと祈るべきである。
(古典の鑑賞)
ユウェナーリス「風刺詩」10巻の一節でした。今回は、『サトゥラェ−諷刺詩』(藤井昇訳、日中出版)が古本で手に入ったので、こちらを読んでみました。
この課題文は、「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」という言葉が実は誤りである、というエピソードを添えて紹介されることが通例のようで、さらにこの「実は誤りである」という解釈も斯く斯く然々の理由で「本当は的外れである」というような解説まであるようです。
この課題文は2回目なのですが、私も、前回は「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」というのはかのナチスのスローガンとして広まったというような紹介をしたと記憶しています。
10巻の部分だけでも、読み通すのは骨が折れますが、この藤井訳、なかなかこなれていてとても読みやすいです。そもそも文庫本と違い、字が大きいので助かります(笑)。それで、何とか、ざっと読んで味わってみたのですが、文脈的には、藤井訳の「健全なる肉体に健全なる精神が宿るようにと希(ねが)うべきである」という訳に、不自然さはないと感じました。
もちろん、健全なる精神のために健全なる肉体を、というような文脈はどこにもなく、この一節は、ユウェナーリスの生きた時代に広く影響を持っていた、ストア哲学や「真の」エピクロス哲学が主張するごとく、「死への怖れを持たず、生命あるひとときを「自然」の恵みのうちに最後のものと考え、どんな労苦にも耐えられ、怒ることを知らず、何ものも求めず、ヘラークレースの艱難辛苦をば、(贅沢もて鳴りしアッシリア最後の王)サルダナパロスの性楽や夕食や羽布団より良しとする強き精神を求めたまえ」「まことに美徳を通じてのみ、平静なる人生の路は開けている」(藤井訳)という主張につながるものと思われます。
ここで健全なる肉体とは、自然の理にかなった身体(と心)の有り様であり、健全なる精神とは、徳を最高善として求める心(と身体)の有り様のことでしょう。前者に重心をおけばエピクロス哲学、後者に重きをおけばストア哲学、というわけです。
「健全なる肉体に健全なる精神が宿るようにと希(ねが)うべきである」ということは、基本的にストア哲学なのでしょうね。
ところで、上記のくだり、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」に通ずるものがありますね。「サウイフモノニワタシハナリタイ」という願いは、まさに「健全なる精神」を求めるストア哲学の「希(ねが)い」そのもの、だったのでしょうか。
文法的には、接続法が学習課題なので、「sit」をどうみるかという点がポイントでしょう。まず、接続法なので「意思、願望」を表現しています。「〜しますように」
また、この場合のsumは、繁辞(〜である)ではなく、存在詞(ある)でしょう。動詞の主語は mens。主格補語の可能性もあるかも知れませんが、「(われわれが)健全なる肉体の中で、健全なる精神になりますように」と、少々文意が通りにくいです。
Ōrandum est も重要な要素でしょう。これは動形容詞の非人称表現で、「ある行為がなされねばならない」という意味を表しています。英訳は「ought to」や「should」となっているようですが、わざわざ「〜することが正しい」「〜した方が良い」というからには、何か思想的な背景のある主張がなされるはずです。
で、虚心坦懐に眺めれば、希うべきは、「健全なる精神が存在するように」ということなので、スポットライトはやはり「健全な精神」の方にあたっていると思われます。
この辺り、まさに「ここぞと言うときのラテン語文法」と言えるかも知れませんね。
「直訳は誤訳の元」という主張も見かけましたが、ここはラテン語学習のブログなので、まずは直訳。これが誤訳を避けるための本則、であります。