練習問題40-3
Quandō dēnique nihil agēs?
(クアンドー デーニクエ ニヒル アゲース?)
Cic.D.O.2.24
キケロー「弁論家について」
【学習課題】
様々な構文 3 疑問文
【語彙と文法解析】
動詞は agēs で、ああ第2変化(videō, vidēs, videt, ...)ね、と思いきや違いました。第3変化動詞 agō の直接法・能動態・未来の2人称単数でした。悔しいので調べてみると、第3変化と第4変化の直接法・能動態・未来は、-am, -ēs, -et, -ēmus, -ētis, -entと変化するようでした。「あなたは行うだろう」
nihil は不変化名詞で、中性・単数の主格と対格のみ。ここでは agēs の目的語で対格。「無、何もないこと」。nihil agēs で「あなたは何もないことを行うだろう」「あなたは何も行わないだろう」
Quandō は時を問う疑問副詞で、「いつ〜のか」
dēnique は副詞で、「結局」
【逐語訳】
Quandō(いつ〜のか)dēnique(結局)nihil agēs(あなたは何も行わないだろう)?
【訳例】
結局いつあなたは何も行わないのか。
結局いつあたなは何もしなくなるのか。
(古典の鑑賞)
キケロー「弁論家について」第2巻の一節でした。今回は『弁論家について』(大西英文訳、岩波文庫)を図書館で借りてきて読んでみました。上下巻の2分冊となっていて、上巻は第1巻・第2巻(1〜56章)、下巻は第2巻(57〜90章)・第3巻となっています。
凡例によると、本書の章立ては、Janus Gruter版キケロー全集(1618年)の区分によるもので、本文の5〜15行毎に施される、より細かい区分はAlexander Scot版キケロー全集(1588〜1589年)に由来する、ということです。
テキストの練習問題には、ほぼすべてに出典が記されていますが、最初はこの章立ての数字で探してみて、あれ?ないぞと思ったりしましたが、テキストの出典は概ね後者の区分になっていますね。(と言いつつ、今回も迷いました。笑)
さて、「弁論家について」からの課題にあたったのは初めてなので、こういうときは、だいたい解説から読んで、作品の背景を調べるのですが、大西先生の解説があまりに熱っぽいので、まずそちらに圧倒されました。まるで、キケローの熱が乗り移ったかのようです。
「高雅、高尚で、一見長閑なこの清談が、実は、凄まじい「ローマの現実」のただなかで行われた、という事実に改めて気づかされる」
「感動とは、そのような状況下でそのような清談をなしうる人間と、そのような人間精神に対するある種の賛嘆の念−このような人間もまたいた、いや、いるのだ、というある種の畏敬の念−から来るそれでもあるのか」
「凄まじい「現実」の中で、人間精神がどこまでの高みに飛翔しうるのか、いや、人間精神が何ものにもとらわれることのないどこまで「自由」な境地を逍遙しうるのか、二重の意味でのその証−本作品の価値の一つはそこにある」
ここで書かれた「ローマの現実」については、あえて触れませんが、本書を初め、キケローの数々の作品で繰り広げられる談論、清談が、かくも「熾烈な政治闘争と動乱」のただ中で著されたものであること、そのことは、キケローその人とその作品に対する評価の上で、決して見落とされてはならないのだ、ということですね。
それから二千年の歴史を経て、今日、私たちは、キケローたちの目指した、言論の自由、法による支配を、当然のように享受していますが、弁論をある種の暴力(権力といってもいいですが)で蹂躙することは、今日でも簡単なことです。
もしも、そうした「現実」を眼前にしたとき、私たちはキケローのように、弁論によって闘えるでしょうか。いや、闘わなければならないのだと、キケローは今も、語りかけてくれているのですが・・・。