ラテン語な日々

〜「しっかり学ぶ初級ラテン語」学習ノート〜

第10回課題(2020.11.21)

練習問題12-4

Omnium rērum principia parva sunt.
(オムニウム レールム プリンキピア パルウァ スント)

Cic.Fin5.58

キケロー「善と悪の究極について」

Cicero: de Finibus V

 

【学習課題】

名詞と形容詞2 第3変化形容詞

 

【語彙と文法解析】

動詞はsuntで、不規則動詞sumの直説法・能動態・三人称複数現在形。「〜である」

補語はparvaで、第1・第2変化形容詞parvusの中性・複数・主格。主語principiaに一致。「小さい」

主語はprincipiaで、第2変化名詞principiumの中性・複数・主格(呼格)または対格。ここでは主格。「始まり」

rērumは、第5変化名詞rēsの女性・複数・属格。「物事の」

omniumは、第3変化形容詞omnisの女性・複数・属格。rērumに一致。「すべての」

 

【逐語訳】

Omnium(すべての)rērum(物事の)principia(始まりは)parva(小さい)sunt(〜である).

 

【訳例】

すべての物事の始まりは小さい。

 

(古典の鑑賞)

キケロー「善と悪の究極について」第5巻の一節でした。今回も『キケロー選集10』(永田・兼利・岩崎訳、岩波書店)を図書館で借りてきて読んでみました。

「善と悪の究極について」はキケロー晩年の一連の哲学的著作のひとつで、第1巻と第2巻はエピクロス派の、第3巻・第4巻でストア派の、そして第5巻ではペリパトス派の倫理学を批判的に紹介しています。

第5巻は、ペリパトス派ですが、ペリパトス派とは、アリストテレス学派で、逍遙(しょうよう)学派とも言われています。ちなみに、ペリパトスとは「木陰の遊歩道」を意味するギリシア語ということで、京都の「哲学の道」を連想しますね。

以前の投稿でも触れましたが、この課題文のところの「たしかに、あらゆる事物は始まりにおいては小さいが、・・・」の文は、唐突な感じがしますので、おそらくアリストテレスが『政治学』の中で説いた「国家の運営とその運営の理論」についての考察を念頭に論を運んでいるのでしょう。

話は逸れますが、実は、私のラテン語学習熱も、もともとはギリシャ哲学への憧憬から始まっています。ある本で「ex nihilo nihil」--このラテン語のもとになったメリッソスの命題として「何もあらぬものからは生じない」という言葉がギリシャ語で紹介されていたのですが、これが読めない・・・。

前回のラテン文法初級クラスの講座の中で、山下先生が来春に出版される『しっかり学ぶ初級古典ギリシャ語』(堀川宏著、ナツメ社)というテキストの紹介をされていましたので、密かに楽しみにしているところです。

 

第8回課題(2020.11.7)

練習問題10-5

Facit indignātiō versum.
(ファキト インディグナーティオー ウェルスム)

Juv.1.79

ユウェナーリス「風刺詩」

Juvenal I

 

【学習課題】

名詞と形容詞2 第4変化名詞

 

【語彙と文法解析】

動詞はfacitで、第3変化動詞Bのfaciōの直説法・能動態・三人称単数現在形。「作る」

versumは補語で、第4変化名詞versusの男性・単数・対格。「詩を」

主語はindignātiōで、女性・単数・主格(呼格)。ここでは主格。「義憤が」

 

【逐語訳】

Facit(作る)indignātiō(義憤が)versum(詩を).

 

【訳例】

義憤が詩をつくる。

 

(古典の鑑賞)

ユウェナーリス「諷刺詩」第1章の一節でした。今回も『ローマ諷刺詩集』(国原吉之助訳、岩波文庫)を図書館で借りてきて読んでみました。

第1章通読してみて、正直に言って、何が書かれているかよくは分からないのですが、詩人が怒っていることは分かります。(笑)

いや、本当は、怒るべきことがらを題材に詩を書いただけ、なのかも知れません。つい、ペンが走ってしまって追放となったオウィディウスの例もありますから。

ともあれ、詩人は「偉大な詩人ルーキーリウスが、競馬を走らせたのと同じこの原野を駆け回りたいと思い立」ち、叙情詩でも教訓詩でもない、諷刺詩を書いたのです。

実際、遅咲きだったユウェナーリスは、修辞学などを深く学び、ルーキーリウスやホラーティウスら先人よりも、さらに技巧的な詩を書いたようで、その美しい韻律を持つ警句は、シラーなど後世の多くの作家に影響を与えた、とのこと。

と言われると、その韻律を鑑賞してみたくなるのですが、今回はストンと落ちませんでした。(涙)

韻律がわかるようになると、詩吟と同じで、ラテン語を学ぶ喜びもより大きくなるように思うのですが・・・。

 sī nātūra negat, facit indignātiō versum

 「たとえ才能が否と言っても、義憤が詩を作る」

<韻律分析> ※六脚律

sī nā/tū-ra ne/gat, fa-cit / ind-ign/ā-ti-ō / vers-um
シー ナー|トゥーラ ネ|ガト ファキト|インディグナ|ーティオー|ウェルスム
長長    長短短    長短短     長長     長短長   長短

こういう時は、もちろん、知らないこと(分かっていないこと)があるはずなのですが、それが何なのか調べるのがむずかしい。ラテン語は、簡単には心を許してくれないです。

 

第7回課題(2020.10.31)

練習問題9-1

Cibī condīmentum famēs est.
(キビー コンディーメントゥム ファメース エスト)

Cic.Fin.2.90

キケロー「善と悪の究極について」

Cicero: de Finibus II

 

【学習課題】

名詞と形容詞2 第3変化名詞

 

【語彙と構文分析】

動詞はest。不規則動詞 sumの三人称単数現在形。

Cibīはおそらく属格と推測して語尾-īから、第二変化名詞cibusとして辞書引き。「食の」。男性・単数・属格。condīmentumにかかるのでしょう。

condīmentumとfamēsはどちらかが主語、どちらかが補語。

condīmentumは語尾-umが第2変化名詞の中性っぽいので、そのまま辞書引き。「香辛料」。中性・単数・主格(呼格)または対格。

famēsは第3変化名詞か第5変化。そのまま辞書引きすると、「空腹」。第3変化名詞famēsらしい。女性・単数の主格(呼格)または女性・複数の主格(呼格)か対格。

「食の香料は空腹である」か「空腹は食の香料である」ですが、後者だと意味が通るので、主語はfamēs。動詞が単数形なのでfamēsは女性・単数・主格。

したがって、一方のcondīmentumは文の補語で、対格。

 

【逐語訳】

Cibī(食の)condīmentum(香辛料)famēs(空腹は)est(である).

 

【訳例】

空腹は食の香辛料である。

空腹は食べ物の味付けである。

 

(古典の鑑賞)

キケロー「善と悪の究極について」第2巻の一節でした。今回も『キケロー選集10』(本多・兼利・岩﨑訳、岩波書店)を図書館で借りてきて読んでみました。

キケローはホラーティウスセネカよりはエピクロス派に批判的なので、エピクロス派=快楽主義のような、ある種の俗説を議論のベースにしているところが、やや残念なところです。

実は、エピクロスの「快」は「苦しみ」の対語で、例えば「空腹」という苦痛が解消されるなら粗末な食事であれ、贅沢なご馳走であれ、「快」の量に差は無いとします。後は、質の違いだけであると。

ちなみに、課題文の「空腹こそが食べものの味つけである」というのは、訳注によると、ソクラテスの言葉ということです。

要は、どうすれば「苦しみ」から解き放たれ、平穏に生きることができるだろうか、という哲学的なテーマにどう応えるかなのですが、エピクロスはともすれば際限の無い苦しみをもたらす精神的なものより、自然や感覚に依拠して、苦しみを(ようやく)脱した状態=快が幸福の基準であるとしました。

エピクロスは、さらに踏み込んで、「もろもろの欲望のうち、充足されなくてもわれわれを苦しみへ導くことのないような欲望はすべて、必須ではない。」(主要教説)と説くのであって、むしろストイックとも言えるでしょう。

まあ、こうしたことは、キケローは本当は理解していたと思うのですが、エピクロスの主張は、最後に、こう帰結します。

「幸福と祝福は、財産がたくさんあるとか、地位が高いとか、何か権勢だの権力だとがあるとか、こんなことに属するのではなくて、悩みのないこと、感情の穏やかなこと、自然にかなった限度を定める霊魂の状態、こうしたことに属するのである。」

「隠れて、生きよ。」(エピクロス 断片 その2)

命をかけて、国家への献身が最高の善であると説いたキケローが、エピクロスを認めるわけにいかないのも、分かるような気がしますね。

 

 

第5回課題(2020.10.17)

練習問題7-2

Est deus in nōbīs.
エスト デウス イン ノービース)

Ov.A.A.3.549

オウィディウス「恋愛術」

Ovid: Ars Amatoria Ⅲ

 

【学習課題】

動詞1 不規則動詞 sum の直説法・能動態・現在

 

【語彙と構文分析】

動詞は Est で不規則動詞sumの三人称単数現在。「存在する」「ある」。

deusは語尾-usから主格と思いそのまま辞書引き。第2変化名詞で、男性・単数・主格(呼格)。ここでは主格。「神が」「神は」

nōbīsは人称代名詞egoの一人称・複数・与格または奪格。前置詞 inは対格・奪格支配なので、ここでは奪格。in nōbīsで「我々の中に」

 

【逐語訳】
Est(存在する)deus(神は)in nōbīs(我々の中に).

 

【訳例】
神は我々の中に存在する。

 

(古典の鑑賞)

オウィディウス「恋愛指南」第三巻の一節でした。今回も『恋愛指南』(沓掛良彦訳・岩波文庫)を図書館で借りてきて読んでみました。『恋愛指南』からの課題は3回目です。

「我々の中に」の「我々」はここでは「詩人」のことです。ギリシャ・ローマの叙事詩では、しばしば冒頭で文芸を司る女神ムーサや芸術の神アポローンへの呼びかけが行われます。

日本でも「言霊(ことだま)」というように、言葉に神が宿るというのは、自然な発想なのでしょう。

霊感が詩を紡ぐというのは、日本人的な感覚からいうと謙遜のようにも受け取れますが、ここでは逆に、詩の(詩人の)力を誇示しているわけです。いわば、詩に称えられて初めて、世界に認められ、歴史に名を残せると考えられていたのでしょう。詩人には、そういう力(役回り)があったのですね。

 

 

 

 

 

 

第3回課題(2020.10.3)

練習問題5-3

Caesar suās cōpiās in proximum collem subdūcit.
カエサル スアース コーピアース イン プロクシムム コッレム スブドゥーキト)

Caes.B.G.1.22
カエサルガリア戦記

Caesar: Bellum Gallicum I

 

学習課題】

名詞と形容詞1 第1・第2変化形容詞

 

【語彙と構文分析】

動詞は、語尾-itから第3変化動詞subdūcōと推測。「引き上げる」「撤退させる」。直説法・能動態・現在・三人称・単数。

主語はCaesarでしょう。第3変化名詞で、男性・単数・主格。

in proximum collemは副詞句と考えて、とりあえず後回し。

subdūcōの目的語となる対格の名詞を探すと、語尾-āsから第1変化名詞cōpiāと推測。「軍勢」。女性・複数・対格。

suāsは再帰的所有形容詞suusで「彼自分の」。cōpiāsに合わせて女性・複数・対格。

in+対格で「〜に向かって」「〜の上へ」。

collemは語尾-emから第3変化collisと推測。「丘」。男性・単数・対格。

collemにかかる形容詞proximumは、対格の語尾-umから第1・第2変化proximusと推測。「最も近い」「すぐ後ろの」。collemに合わせて男性・単数・対格。

 

【逐語訳】

Caesar(カエサルは)suās(自身の)cōpiās(軍隊を)in proximum collem(すぐ後方の丘に)subdūcit(撤退させる).

 

【訳例】

カエサルは自身の軍隊をすぐ後方の丘に撤退させる。

 

(古典に親しむ)

カエサルガリア戦記」第1巻の一節でした。今回は最近手に入れた『ガリア戦記』(國原吉之助訳・講談社学術文庫)を読んでみました。それから、図書館の蔵書検索でたまたま見つけた『マンガで読破 ガリア戦記』(イースト・プレス)も試しに読んでみました。

講談社学術文庫の方は、本屋さんでカール・マルクスの『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』と並んで平積みされていたので思わず2冊とも衝動買いしてしまいました。(笑)

「マンガで読破」の方は、文庫版190頁で、一気に読めました。以前、「アエネーイス」がピンとこなくて、映画「トロイ」を観てみたことがありますが、「ガリア戦記」も当時のヨーロッパの地名や部族名がたくさん出てくるので、マンガでイメージを膨らませることができて、割と良かったです。

講談社学術文庫では、各章ごとに名前がふってあり、第1巻は「一年目の戦争(紀元前五八年)」、2章は「ヘルウェティイ族との戦い(2〜29節)」です。

今回の課題文は22節。ガリア総督1年目、最初の戦争。まだ自軍も手薄(4個軍団に新たに募集した2個軍団。1個軍団は6千人)で、ガリア全土への覇権を目指して大挙して押し寄せるヘルウェティイ族(兵力9万?)を前に、歴戦の士官たちも大きな恐怖心を抱いたようで、偵察に出た士官が見てもいない自軍に不利な戦況を報告したため、カエサルは一旦自軍を丘の上に引き上げた、というのが課題文のくだりでした。

 

第38回課題(2020.8.22)

練習問題38-2

Nōminibus mollīre licet mala.
(ノーミニブス モッリィーレ リケト マラ)

Ov.A.A.2.657
オウィディウス「恋愛術」

Ovid: Ars Amatoria II

 

【学習課題】

動詞5 様々な構文 1 非人称構文

 

【語彙と文法解析】

nōmen -minis, n ① 名, 名前 ② 名称, 呼称;称号.③ 表現, ことば (以下略)
Nōminibus は第3変化名詞 nōmen の中性・複数・与格または奪格。ここでは、手段の奪格。

molliō -īre -īvī [-iī] -ītum, tr ① 柔らかくする.(中略)⑤ 和らげる, 緩和[軽減]する.
mollīre は第4変化動詞 molliō の不定法で、和らげること。

licet -ēre licuit , intr impers ① (...することが)自由である, 許されている 〈alci;+inf;+acc c. inf;+subj;ut〉 (以下略)
licet は第2変化動詞(非人称動詞) licet の三人称単数現在形。<不定法の内容>が許される。

malum -ī, n ① 悪いこと, 悪;悪事, 犯罪.② 欠点;不利益, 不十分. (以下略)
mala は第2変化名詞 malum の中性・複数・主格(呼格)または対格。ここではmolīreの直接目的語で対格。

 

【逐語訳】

Nōminibus(表現によって)mollīre(和らげること)licet(〜することが許されている)mala(欠点を).

 

【訳例】

表現によって欠点を和らげることができる。

 

(古典の鑑賞)

オウィディウス「恋愛指南」第2巻の一節でした。今回も『恋愛指南』(沓掛良彦訳、岩波文庫)を図書館で借りてきて読んでみました。

ラテン語の題名は「Ars Amātōria(アルス・アマトリア)」 。直訳すると「恋愛術」ですが、邦題を「指南」としたところは、愛の師範=オウィディウスが、手取り足取り恋の手ほどきをする、という内容に即した、訳者のこだわりということです。

もともと「Ars Amātōria」は「ars rhētorica」(弁論術)のもじりで、恋の駆け引きという、およそ教訓詩に似つかわしくないテーマを、ウェルギリウスの「農耕詩」などの教訓詩になぞらえ、大まじめに歌い上げたもので、作品自体が「たわむれ」=パロディであって、当然、「当時の読者も、諧謔と皮肉をまじえたこの作品を、快活で知的な「遊戯」、たわむれと承知の上で楽しんだ」(解説より)ようです。

この作品、他のローマ文学作品に比べて、感想・書評の類いのネットの書き込みが多いような気がするのですが、「低俗」「許せない」という評も多々あり、ある意味「おたわむれが過ぎた」と言えるのかも知れません。

実際、オウィディウスは「愛の詩人」として絶頂を迎えていた頃、時の皇帝アウグストゥスによってローマから追放されてしまいます。オウィディウスにすれば、明らかにパロディ作品とわかるお遊びの作品に、まさか皇帝が本気で怒り出すなどということは思いもよらなかったのでしょうね。

慌てたオウィディウスは、自身でも、この作品を書いたことを後悔しているのですが、追放の真の理由はよく分かっていないようです。

ともあれ、内容は「恋のかけひき」を歌ったものではありますが、これはローマ文学が歴史の誇る恋愛教訓詩です。オウィディウスは、この作品で、それまでの「恋愛詩」とは異なる新たなジャンルを打ち立てたのでした。

では、今回の課題文にそって、ローマ恋愛詩の正統、エレゲイア詩形を確認してみましょう。

 Nō-mi-ni/bus mol/lī-re li/cet ma-la: /fus-ca vo/cē-tur,
 (ノーミニ/ブス モッ/リーレ リ/ケト マラ /フスカ ウォ/ケートゥル)
  長短短  長長    長短短    長短短    長短短     長短
  Nig-ri-or /Īl-ly-ri/ca cu//ī pi-ce /san-gu-is /er-it:
  (ニグリオル /イーリュリ/カ ク//イーピケ /サングイス /エリト)
   長短短    長短短   長    長短短  長短短    長 

オウィディウスは、言わば、モーツァルトのように、きっと才能がありすぎたのですね。

 

PS.

韻律は「言うや易く、行うは難し」です。山下先生に韻律を直していただきました。

 Nō-mi-ni/bus mol/lī-re li/cet ma-la: /fus-ca vo/cē-tur,
 (ノーミニ/ブス モッ/リーレ リ/ケト マラ /フスカ ウォ/ケートゥル)
  長短短  長長    長短短   長短短    長短短     長短
  Nig-ri-or /il-ly-ri/cā //cuī pi-ce /san-gui-s e/r-it:
  (ニグリオル /イッリュリ/カー//クイー ピケ /サングィセ /リト)
   長短短    長短短   長   長短短    長短短    短

<逐語訳>

その者に(cuī)イリュリアの(Illyricā)瀝青より(pice)黒い(Nigrior)血が(sanguis)ある(erit)ところの者は(=イリュリアの瀝青より黒い血を持つ者は)フスカ(=浅黒い)と呼ばれるべきである(voceētur)。

 

===

Illyricā は第1変化名詞 Illyria の女性・単数・奪格。

REmpire Illyricum
イリュリア(アドリア海東岸地域)

第33回課題(2020.7.11)

練習問題33-3

Nōn quī parum habet, sed quī plūs cupit,pauper est.
(ノーン クゥイー パルム ハベト、セド クゥイー プルース クピト、パウペル エスト)

Sen.Ep.2.6
セナカ「倫理書簡集」

Seneca: Epistulae Morales, Liber I

 

【学習課題】

代名詞2・その他 比較

 

【語彙と文法解析】

quī quae quod, pron, adj Ⅰ (adj interrog)① どの, 何の, どのような (中略)
Ⅱ (pron relat)Ⓐ (+ind)① (事実関係)...するところの(人・もの)(以下略)
quī は関係代名詞 quī の男性・単数・主格または男性・複数・主格。ここでは男性・単数・主格。先行詞である文の主語は省略されている。

parum adv 不十分に, 少なすぎて

habeō -ēre habuī habitum, tr(intr)① 持つ, 所有する.(以下略)
habet は第2変化動詞 habeō の直接法・能動態、三人称単数現在形。

sed, set conj ① (否定辞の後で)(...ではなく)...で (以下略)
nōn A set B で AではなくB。

plūs adv comp ① より多く, それ以上に ② さらに, そのうえ.

cupiō -pere cupīvī [-iī] cupītum, tr ① 切望する, 熱望する ② 愛着[好意]を示す 〈+dat〉.
cupit は第3変化動詞B cupiōの直説法・能動態、三人称単数現在形。

pauper -eris, adj ① 貧乏な, 貧しい.② 安価な.③ 乏しい, 貧弱な 〈alcis rei〉.
Pauper は第3変化形容詞(見出しがひとつ) pauper の単数・主格(呼格)または対格。ここでは主格補語で、男性・単数・主格。主語は省略されている。

sum esse fuī, intr Ⅰ (存在詞)①⒜ 存在する, ある, 居る (中略) Ⅱ (繋辞として)① ...である (以下略)

 

【構文】

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【逐語訳】

Nōn(〜ではなく) quī(〜する人)parum(不十分に)habet(所有する), sed(〜である)quī(〜する人)plūs(より多く)cupit(切望する),pauper(貧しい)est(である).

 

【訳例】

わずかしか持たない者ではなく、より多くを望む者が貧しいのである。

 

(古典の鑑賞)

セネカ「倫理書簡集」の一節でした。今回も『セネカ哲学全集 5』を図書館で借りてきて読んでみました。

セネカは「他派」であるものの、エピクロスも学び、本書のなかでもエピクロスからの引用が多く見られます。例えば、エピクロス「断片」(その1-25)に、次のような文が見つかりますが、今回の課題文の命題そのものですね。

「貧乏は、自然の目的(快)によって測れば、大きな富である。これに反し、限界のない富は、大きな貧乏である。」

エピクロス倫理学では、人間の欲求を、

  • 自然でもなく必要でもない欲求(たとえば名声、権力)
  • 自然だが不必要な欲求(たとえば大邸宅、豪華な食事、贅沢な生活)
  • 自然で必要な欲求(たとえば友情、健康、食事、衣服、住居を求める欲求)

の3つに分類し、このうち「自然で必要な欲求」を基本として生きることが、善き生き方であるとしたのですが、こうした「人間の感覚を善の尺度とする考え方」は、「自然=神の意志」に従って生きることを善き生き方であるとするストア派の立場と対立したため、どちらかと言えばむしろストイックなその思想も、「快楽主義」だと歪曲され、攻撃の的となったようです。

ただ、この時代のローマ人にとって、エピクロス学派はまだかなり影響力を持っていたようで、エピクロスラテン語に翻訳したルクレティウスはもちろん、ホラーティウスも自身のことを冗談めかして「エピクロスの豚(放蕩者の意)」と評したりしています。過去の学習会の課題でも、ホラーティウス『書簡詩』から「Semper avārus eget.」(貪欲な者は常に欠乏している。)に取り組んだことがありますし。

セネカストア哲学の第一人者ですが、その思想はエピクロスとかなり親和性が高かったようですね。

ところで、上記の「自然で必要な欲求」の例示を眺めていると、何となく憲法の条文のように見えてきて、ちょっと調べてみると、エピクロス哲学は「西洋最初の完全なヒューマニズムを創始すべき試みであった」と書かれている方がおられて、なるほどと一人で頷いてしまいました。

的外れかも知れませんが、何となく西欧近代の人権思想が築きあげられるに至った歴史の厚みのようなものを、少し垣間見た気がいたしました。