ラテン語な日々

〜「しっかり学ぶ初級ラテン語」学習ノート〜

第27回課題(2020.5.30)

練習問題27-3

Mihi quidem Scīpiō, quamquam est subitō ēreptus, vīvit tamen semperque vīvet.

(ミヒ クイデム スキーピオー、クアムクアム エスト スビトー エーレプトゥス、ウィーウィト タメン センペルクゥェ ウィーウェト)

Cic.Amic.102
キケロー「友情について」

 

【学習課題】

動詞4 直接法・受動態(2)完了・未来完了・過去完了

 

【語彙と文法解析】

ego pron pers(人称代名詞)(一人称)私.
mihi は人称代名詞 ego の通性・一人称・与格。ここでは判断者の与格で、〜にとって。

quidem adv 確かに, 全く

Scīpiō -ōnis, m スキーピオー《Cornelia 氏族に属する家名;特に (1) P. Cornelius ~ Africanus(Major), 第2次 Poeni 戦争で Hannibal を破った(前236‐?184).(2) P. Cornelius ~ Aemilianus Africanus(Minor), 第3次 Poeni 戦争で Carthago を滅ぼした(前185?‐129)》.

quamquam, quan- conj(接続詞) ① ...とはいえ, ...にもかかわらず ② しかしながら, それにもかかわらず.

subitō adv(副詞)(abl)① 突然(に), 不意に.② すぐに, 短時間で.

ēripiō -pere(不定法)-ripuī(完了形)-reptum(目的分詞), tr(他動詞)① 引きはがす, 引きちぎる 〈alqm [alqd](ex [a, de])re;alqd+dat〉.② 奪い取る, ひったくる 〈alci alqd;alqd ab alqo〉.(以下略)
est ēreptus で ēripiōの 直説法・受動態・完了形となる。

vīvō -ere(不定法)vixī(完了形)victum(目的分詞), intr(自動詞) ① 生きている, 生きる (以下略)
vīvit は 第3変化動詞 vīvō の直説法・能動態で、三人称・単数・現在。
vīvet は 第3変化動詞 vīvō の直説法・能動態で、三人称・単数・未来。

tamen adv しかし, にもかかわらず;それでも, やはり

semper adv 常に, いつでも

 

【逐語訳】

Mihi(私にとって)quidem(確かに)Scīpiō(スキーピオーは), quamquam(〜にもかかわらず)est subitō(突然)ēreptus(奪われた), vīvit(彼は生きている) tamen(やはり)semperque(常に)vīvet(生きているだろう).

 

【訳例】

確かにスキーピオーは私にとって突然奪われたのだが、しかしながら彼は今も生きているし、やはり常に生きているだろう(永遠に生き続けるだろう)。

 

(古典の鑑賞)

キケロー「友情について」の一節でした。今回は、『友情について』(中務哲郎訳、岩波文庫)を図書館で借りてきて読んでみました。

「友情について」の設定は129年。小スキーピオーの突然の死後まもなく、親友ラエリウスが娘婿のファンニウスとスカエウォラから懇願されて、思うところを語るという作品です。ところで、先日取り組んだ課題の作品「スキーピオーの夢」の設定も129年。こちらは、小スキーピオーの死の直前でした。 現代の私たちにさえ、否が応でも印象づけられるこの年。キケローは、ここから「内乱の世紀」が始まった、スキーピオーもプブリウス・ナーシーカ(138年の執政官。小スキーピオーの従兄弟)も、グラックス兄弟の仲間や親族たちに暗殺されたのだ、と叫んでいるかのようです。

「ラエリウス・友情について」はキケロー最晩年の44年、一連の哲学的著作の後、「カトー・老年について」とともに著されたとのこと。題名の通り「友情論」についての作品ではありますが、キケローの問題意識は、理想国家ローマ共和制の瓦解を眼前にして、祖国に弓を引くような者に、どうして友情を口実として追随し、進んで祖国への反逆に手を貸すようなことになるのか。仲間や親族が信義に悖ること、誓いに背くこと、国家に敵対することを求めたとき、これを友として正すことができないような「友情」とは何なのか、という点にあったのではと思えてきます。

もちろん、実際の政治的課題に対しては、改革派の政策が一定の合理性を持っていたとしても、元老院やそれを支える名門貴族を中心とする大地主の利害の調整がうまくいかず、既得権益への不用意な介入が、国家への反逆として捉えられる面もあるので、単に皮相な友情によって改革勢力が糾合されていったわけでもないでしょうけど・・・。

ともあれ、キケローは、「友情について」の後、倫理学上の大作「義務について」を書き上げ、共和制の下での理想の市民のあり方を示したのち、翌43年、自殺に追い込まれ、ローマは元首政(プリンキパトゥス)に移行していきます。

ところで、元首政ローマの初代皇帝アウグストゥスは、キケローを最終的には裏切り、その死に加担したわけですが、実は、この元首政こそが、キケローの理想の国家像だったという解説を何かで読んで、歴史の皮肉を感じてしまいました。

内乱の世紀の下で、歴史の原動力はどこにあるのかを見つめたキケローの(単なる「講義室の哲学者」ではない)慧眼と言うべきなのでしょうね。