ラテン語な日々

〜「しっかり学ぶ初級ラテン語」学習ノート〜

第27回課題(2021.3.27)

練習問題29-4

Dulce et decōrum est prō patriā morī.
(デュルケ エト デコールム エスト プロー パトリアー モリー

Hor.Carm.3.2.13

ホラーティウス「カルミナ」

Horace: Odes III

 

【学習課題】

動詞4 不定

 

【語彙と文法解析】

動詞は est で不規則動詞 sum の直接法・能動態・現在、三人称・単数。「〜である」

構文は、dulce と decōrum は prō patriā morī である、かな。逆に、prō patriā morī は dulce で decōrum である、かも。

とりあえず morī がキーになると思い、辞書引き。第3変化動詞B morior の不定法でした。「死すことは」で文の主語かな。

patriā は 第1変化名詞 patria の女性・単数・奪格。「祖国において」など。

prō は 前置詞 で +奪格で 「〜のために」など。ここでは、prō patriā で「祖国のために」か。

Dulce は第3変化形容詞 dulcis の中性・単数・主格(呼格)または対格。ここでは文の補語で主格。形容詞の名詞的用法。「甘い」「快い」

最初、副詞と思いました。副詞は基本、補語にならないかな。山下先生のコメント添えます。不定法は中性・単数で受けるんですね。

主語morīが不定法・現在なので、補語となるdulceは中性・単数で受けます。
decōrumも同様です。
例)Errāre hūmānum est. (間違うことは人間的である)のhūmānumは「中性・単数・主格」となります。

et は 接続詞で「そして」

decōrum は 第1・第2変化形容詞 decōrum の中性・単数・主格(呼格)または対格。ここでは文の補語で主格。「美しい」

 

【逐語訳】

 Dulce(快く)et(そして)decōrum(美しい)est(である)prō patriā(祖国のために)morī(死すことは).

 

【訳例】

祖国のために死すことは快くそして美しい。

 

(古典の鑑賞)

ホラーティウス『カルミナ(歌章)』の第3巻の一節でした。今回も『ホラティウス全集』(鈴木一郎訳、玉川大学出版部)を図書館で借りてきて読んでみました。

ウェルギリウスといえば「アエネーイス」、ホラーティウスといえば「カルミナ」と言われるくらいのホラーティウスの代表作です。全4巻ですが、1〜3巻が前23年に公表され、4巻は前14〜13年と少し時期がずれます。

世は、オクターウィアーヌスがローマ帝政の基盤を固めつつある時代。より大きくとらえれば、アクティウムの海戦に勝利(前31年)して、プトレマイオス朝に終止符をうった、ヘレニズムからパックス・ロマーナへの移行期です。

ヘレニズム時代は、言わばギリシャ文化の世界で、共和制ローマの時代から、カエサルをはじめ、ローマの指導者たちは、アレクサンドリアを訪れ、前3世紀には建設されていた図書館の膨大な量のギリシャ語の図書を眼前にして、覇権を広げるローマにふさわしい新しい文化の拠点として、ローマに図書館の建設を夢見たのでした。

前28年、完成した図書館には、ギリシャ語図書の部とラテン語図書の部があったそうですが、地中海世界の覇者となった帝政ローマにとって、ラテン語図書の充実が求められたのは、当然でしょうね。この時期、「ローマ建国史」(リヴィウス)、「事物の本性について」(ルクレティウス)、「アエネーイス」(ウェルギリウス)などローマ文学の巨星が一斉に登場したのも、偶然ではないでしょう。

実は、ホラーティウスの庇護者、マエケーナースはオクターウィアーヌスの参謀を務めた人物で、軍事のアグリッパ、外交・文化のマエケーナースと伝えられているのですが、マエケーナースの周りに出来た文人サークルには、ウェルギリウスをはじめ当時の文化人が集い、ホラーティウスウェルギリウスらとの出会いを通じて、このサークルに参加することになったのでした。

カルミナは、こうしてローマ詩壇に活躍の場を得たホラーティウスの目を通して、激動期とも言える時代を、少し引いた目線で、やや面白がって見つめた詩人の作品として、とても魅力的な詩集となっていて、ローマ史とともに学ぶといろいろ発見がありそうです。

さて、課題文の方ですが、カルミナ第3巻の2の一節で、第3巻の1から6までは、特にアウグストゥスの強い意向による、とも言われ、6歌とも市民にローマの伝統的な倫理観を説く、やや官製の説教調の、いわばホラーティウスらしくない詩調となっているのが、個人的には残念なところではあります。

まあ、しかしながら、カルミナから6年後、ホラーティウスは「ローマ百年祭」の讃歌を依頼され、詩壇の頂点に上り詰めたのでした。

マエケーナースは、その死に際して、皇帝に「私のことのようにホラーティウスのことをよろしく」と頼んだそうです。マエケーナースは、ホラーティウスにもう一度、「諷刺詩」の時代のような詩を、書いて欲しかったのではないかなと、ふと思いました。

 

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ホラティウス全集」796ページの圧巻です

 

 

 

 

第31回課題(2021.4.24)

練習問題33-5

Quid enim est jūcundius senectūte stīpātā studiīs juventūtis?
(クイドゥ エニム エスト ユークンディウス セネクトゥーテ スティーパーター ストゥディイース ユウェントゥーティス)

Cic.Sen.28

キケロー「老年について」

  

【学習課題】

代名詞2・その他

 

【語彙と文法解析】

動詞は est で不規則動詞 sum の直説法・能動態・現在、三人称・単数。「である」

enim は接続詞でしょう。ラテン語の接続詞は2番目に来ることが多いと、先日のラテン語講読の時間に教えて頂きました。「というのも」「確かに」

Quid は疑問代名詞 quis の中性・単数・主格で、「何が」

juventūtis は 第3変化名詞 juventūs の女性・単数・属格。「青春時代の」「若者たちの」

studiīs は第2変化名詞 studium の中性・複数・奪格。「熱意によって」

stīpātā は 第1・第2変化形容詞(完了分詞の受動態 <stīpō)stīpātus の女性・単数・奪格。「取り囲まれた」

senectūte は 第3変化名詞 senectūs の女性・単数・奪格。比較の奪格で「老年より」

jūcundius は 第1・第2変化形容詞 jūcundus の比較級で、中性・単数・主格。「より快い」「より楽しい」

 

【逐語訳】

Quid(何が)enim(というのも)est(であるか)jūcundius senectūte(老年より楽しい)stīpātā(取り囲まれた)studiīs(熱意によって)juventūtis(若者たちの)?

 

【訳例】

というのも、若者たちの熱意に取り囲まれた老年より快いものは何であるか?

というのも、若者たちの熱意に取り囲まれた老年より喜ばしいものがあるだろうか?

 

(古典の鑑賞)

キケロー「老年について」の一節でした。今回は、とうとう『老年について 友情について』(大西英文訳、講談社学術文庫)をKindle版で購入して読んでみました。4月で還暦を迎えた記念です。(笑)

「老年について 友情について」は今回で4回目。キケローの老年論は快活なので、シニアに足を踏み入れんとする私には、応援歌です。

キケローが62歳頃の作品らしく、今の私より2歳年上ですが、キケローは史上最年少の法定年齢 43歳で執政官まで上り詰め、共和制末期の激動期を政治の中枢で生きたわけで、もちろん凡庸な人生を送りつつ、老年を迎えようとしている私などとは、全く生きる世界が違うのですが。

まあしかし、古今東西、「老い」は、人間にとって普遍的なテーマですから、「老年について」はキケローの作品の中では「友情について」とともに最もポピュラーな作品として、多くの人々に愛されているようです。

さて、キケローは、老年が惨めなものと映る理由として、(1)諸々の活動から身を引かされ、(2)肉体が衰え、(3)快楽を奪い去され、(4)死が間近であることを挙げ、その各々について豊富なエピソードを交えて、反駁していきます。

まず、老人は、実際には幅広く社会の活動に携わっていることを例示し、また、国政の指導、若者の教育など、老人にふさわしい仕事があり、それは、歳を重ねてこそ得られる老人の精神力、賢慮、理性の力によるのだ、とします。

確かに、歳をとると、記憶力も体力も衰える。ただし、それは鍛錬を怠ったり、生来、魯鈍である場合である、とさすがに手厳しいのですが、まあ実際は、やみくもな体力を必要とすることもなく、むしろ、自分のもてる力相応のことをするのが、ふさわしい行動というものである、と説きます。

次に、快楽ですが、精神にとって快楽ほど危険な敵はない、といつものエピクロス派への批判を展開する一方、老人も相応の快楽を享受できるし、過度にならない分老人に分があるとし、何より精神的快楽を得られる学問や農作の営みは、青年の快楽をすべて集めても及ばない価値がある、云々。

死については、結局、どの年代についても共通のもので、死は自然の必然、摂理であり、賢明な人間なら従容として受け入れるべきだとし、個体は死すとも、世代交代を繰り返す、悠久の自然の営みに思いを馳せます。

で、今回の課題文。老人にふさわしく、また老人の喜びでもある行為として若者の教育への役割を説く場面なのですが、つまりは、世代交代。生涯にはそれぞれの時期に意味があり、ここから青春だけ、老年だけを切り離してみる世代観は無意味である、ということのようです。

jūcundius は「より楽しい」ですが、老人の眼差しの向こうにあるものは、若者たちの未来、100年後の社会のすがたと思えば、もう少し目線が高くなりますね。

「実際、若者の情熱に囲まれた老年ほど喜ばしいものが他に何かあるだろうか」(大西訳)

ラテン語に出会えて良かったと思える瞬間です。

 

キケロー著作年表】

  • 弁論家について(55年)
  • 国家について(54年-51年)
  • 法律について(51年。未完)
  • ブルートゥス(46年)
  • ストア派パラドックス(46年)
  • ホルテンシウス(45年春。散逸)
  • 善と悪の究極について(45年5-6月)
  • アカデミカ(45年5-6月)
  • トゥスクルム荘対談集(45年6-8月)
  • 神々の本性について(45年6-8月)
  • 大カトー・老年について(44年。3月15日のカエサル暗殺より以前)
  • 占いについて(第2巻以降は44年3月15日以後)
  • 宿命について(44年5-6月)
  • ラエリウス・友情について(44年夏または初秋)
  • 義務について(44年10月末-11月)
  • ピリッピカ(44年9月-43年4月)

 

第23回課題(2021.2.27)

練習問題25-4

Superanda omnis fortūna ferendō est.
(スペランダ オムニス フォルトゥーナ フェレンドー エスト)

Verg.Aen.5.710

ウェルギリウスアエネーイス

P. VERGILI MARONIS AENEIDOS LIBER QVINTVS

 

【学習課題】

代名詞1 分詞・動名詞・動形容詞 3 動形容詞

 

【語彙と文法解析】

動詞は est。不規則動詞 sum の三人称単数現在。「〜である」

fortūna は第1変化名詞 fortūna の女性・単数・主格(呼格)。ここでは主格。「運命は」

ferendō は fortūna にかかる形容詞っぽいですが、動名詞、動形容詞かも。動詞は 不規則動詞 ferō かな。現在分詞が fere-ns。動名詞が fere-ndum、動形容詞 ferend-us で、ferendōは、動名詞でも動形容詞でも、与格か奪格でした。動形容詞とすると、男性か中性の単数で与格または奪格。あれ?女性じゃない。fortūnaにかかるんではないんだ。ということは、ここでは、動名詞で奪格。「耐えることによって」

omnis は、第3変化形容詞 omnis の男性女性・単数で主格(呼格)または属格。fortūna にかかるので、女性・単数・主格。「すべての」

Superanda は動形容詞(動名詞の活用に-aがないので)でしょうね。元の動詞はsuperõ でした。不定法 -āre で第1変化動詞。動名詞 supera-ndum、動形容詞 superand-us。Superanda は、動形容詞 sperandus の女性・単数・主格(呼格)か、中性・複数・主格(呼格)または対格。ここでは fortūna にあわせて女性・単数・主格で「(乗り)越えられるべき」。文の補語で、動形容詞の述語的用法。
※superōは「越える」ですが主語 forutūna「運命」は「越えられる」側なので、ラテン語動形容詞の直訳は「越えられるべき」となる。日本語では「越えるべき」が自然

 

【逐語訳】

Superanda(乗り越えられるべき)omnis(すべての)fortūna(運命は)ferendō(耐えることによって)est(〜である).

 

【訳例】

すべての運命は耐えることによって乗り越えるべきである。

 

(古典の鑑賞)

ウェルギリウスアエネーイス」第5巻の一節でした。今回は泉井久之助訳・岩波文庫杉本正俊訳・新評論の『アエネーイス』を読んでみました。

第5巻は、ディードーを裏切り(第4巻)、冥界で父に自身の運命を知らされる(第6巻)という重いストーリー展開の間にあって、ちょっと小休止といった趣です。

カルタゴを出て、イタリアに向かう途中、また悪天候シチリア島に避難したアエネーアースらは、トロイアにゆかりのあるアケステース王の歓待を受け、この地に骨が安置されていた父アンキーセースの供養をする一方、父の墓前に捧げるため、艦隊をあげての軍事パレードや競技会のようなことを始めます。

その間、トロイアの貴婦人たちは、海岸で、アンキーセースの死を悼みつつ、「ああ、もう波を越えて行くことには疲れてきた。まだどれほどのこんな海が残っているのか」と、嘆き、都を恋しがったのですが、そこで、またぞろ、ユーノー女神のさしがねで、女性たちは混乱状態に陥り、なんと、艦隊の船に次々と火を放ったのです。

何とか、艦隊の全滅は免れたのですが、呆然とするアエネーアース。ここで、古武士ナウテースがアエネーアースを慰めつつ、語った言葉が、今回の課題文でした。

「女神の御子よ、運命の示す方向へ行きましょう。何処へ進むことになろうと、また、たとえ引き返すことになっても、運命というものは、それを引き受けることでしか乗り切ることはできません。どんな事態が待ち受けていようともです。」(杉本訳)

泉井訳は、韻文調の訳です。

「女神のみ子よ運命が、
どこにわれらを連れて行き、また返してもわれわれは、
従うことにいたしましょう。この上何が起ころうと、
すべて運命なるものは、忍耐でしか勝てません。」(泉井訳)

結局、アエネーアースは、旅に疲れた女性たち、お年寄り、体の弱い人、この地に留まりたいものをここに残して、「獰猛苛烈な一族」だけを引き連れてイタリアに向かうことになります。

この地の王アケステースは、トロイアの人々のまちができることを喜び、エリュクス山に、神殿を建てたとのことですが、調べてみると、山頂付近にその遺跡があるようです。ただ、ネット上には、その後、神殿の上に城が築かれたという記述もあり、ハッキリしません。この辺りは、やはり実際に行ってみると、自分なりに発見もありそうです。

ちょっと興味が湧いたので、Google Mapでかの地に行ってみました。写真は、古代エリュクスのまちがあったと思われる、エリュクス山(現在のサン・ジュリアーノ山)の中腹あたりです。正面の建物は修道院、その遥か海の向こうがカルタゴです。

イタリア、行ってみたいですね〜。

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正面はサンタ・アナ女子修道院。その遥か向こうの海を渡るとカルタゴです

 

ja.wikipedia.org

 

 

第21回課題(2021.2.13)

練習問題23-4

Jūcundī actī labōrēs.
(ユークンディー アクティー ラボーレース)

Cic.Fin.2.105
キケロー「善と悪の究極について」

Cicero: de Finibus II

 

【学習課題】

分詞・動名詞・動形容詞 1分詞(現在分詞・完了分詞・目的分詞・未来分詞)

 

【語彙と文法解析】

むずかしい。眺めているとどれも動詞っぽいですが、だいぶ悩んだ末、動詞はsumで略されているのかなと思いました。

actī も動詞っぽいので、これが分詞かなと思い、完了分詞と見込んで、第1・第2変化形容詞の変化(actus、actī、actō、actum、actō)から、actusで辞書引き。actus は 第3変化動詞 agō の完了分詞で、意味はいろいろありますが、「行う、果たす」あたりか。この辺りは答を知っているので(汗)。actī は 次のlabōrēs にかかるので、男性・複数・主格。完了分詞で「果たされた状態の」。

labōrēs は 形容詞 actī が修飾するので名詞で主格。labōrで辞書引き。辞書見出しはlaborでした。labōrēsは、第3変化の男性名詞 labor の複数の主格(呼格)か対格。ここでは、主格で「労働は、苦難は」

最後に Jūcundī は文の補語で、名詞か形容詞。可能性はいろいろありそうですが、形容詞の述語的用法として、labōrēs に性数格が一致するとすると、男性・複数・主格。第1・第2変化形容詞の複数・主格なら合いそうです。jūcundus で辞書引き。「快い、楽しい」

 

【逐語訳】

 Jūcundī(快い)actī(果たされた状態の)labōrēs(労苦は)(sunt).

 

【訳例】

果たされた労苦は快い。

 

(古典の鑑賞)

キケロー『善と悪の究極について』第2巻32章の一節でした。今回も、「キケロー選集10」(永田・兼利・岩崎訳、岩波書店)を図書館で借りてきて読んでみました。第10巻は、選集の中でも人気が高いようで、古本でも高値がついていて、なかなか手が出ないです。

キケローのこの著作は、今回で5回目なので、ちょっとがんばって1〜2巻を通読してみたのですが、だいぶ辛かったです。(笑)

第1巻では、キケローの年下の友人でエピクーロス派のトルクワートゥスにエピクロス哲学の主張を語らせ、第2巻で、キケローがこれを吟味していくというかたちで、論を進めています。

まず、1巻ですが、当然と言えば当然ですが、キケローがエピクロス哲学の少なくとも倫理学について、おそらくは自然哲学についても、当代一流の理解をしていたんだな、と感じました。だからこそ、ローマを思い、祖国愛と名誉と賞賛を何よりも重んじ、自己犠牲を厭わない精神性を大切にしたキケローは、エピクロス派が多くの大衆の心をつかんでいたことに、強い危機感を持ったのでしょうね。

第2巻では、キケローによるエピクロス哲学の吟味が展開されます。エピクロスの「教説と手紙」などを読むと、キケローによるエピクロスの主張の紹介について「そんなこと書いてあったかなぁ」というのもいろいろありそうですが、アリスティッポス(快楽を最高善と説く)からヒエローニュモス(苦痛の不在を最高善と説く)、カルネアデース(快楽と徳の結合を説く)云々と続く、哲学史の紹介のくだりは、わかりやすかったです。

2巻も後半になると、エピクロスの吟味から離れぎみで、自身の最高善である「高潔」(正義、知性と理性、真実への欲求、秩序と節度)についての論を、さまざまな人物のエピソードの紹介を通じて展開し、君(トルクワートゥス)も、将来、しかるべき地位についたとき、最高善は快楽である、などとは言えないのだよ、と説きます。この辺りは、少々論が飛躍している感じですが、キケローの危機感は、十分に伝わってきます。

さて、課題文のくだりですが、「済んだ苦労は愉快なもの」という諺として登場しますが、文脈的に、論旨を追うことがむずかしかったです。

ただ、エピクロス哲学の吟味を始めるにあたって、エピクロスの「快」ἡδονή(へードネー)のラテン語訳は、主に肉体的な快楽を表現する voluptās(ウォルプタース)となるが、「快い」jūcundum(ユークンドゥム)という言葉もある、と紹介しているので、ここは「苦が快楽になる」と読んで、エピクロスを少々茶化している部分なんでしょうね。

その後、キケローの著作の影響か、エピクロス学派は消滅し、唯物論が再び歴史に登場するには、15世紀になってルクレーティウスの『事物の本性について』が発見されるまで、待たなければなりませんでした。

エピクロス哲学への謂われなき批判については、以下の文章がその回答となるでしょうか。

「それゆえ、快が目的である、とわれわれが言うとき、われわれの意味する快は、(中略)道楽者の快でもなければ、性的な享楽のうちの存する快でもなく、じつに、肉体において苦しみのないことと霊魂において乱されない(平静である)こととにほかならない」(メノイケウス宛の手紙より『エピクロスー教説と手紙』出隆・岩崎允胤岩波文庫

エピクロスは、「(苦がなければ)もはや快を必要としない」(同上)とも言っているので、「快」とは、精神的・肉体的苦痛からの解放という哲学的課題の象徴だったのかなと、私は思うのですが。 

 

 

第19回課題(2021.1.30)

練習問題21-4

Sī haec in animō cōgitāre volēs, et mihi et tibi et illīs dempseris molestiam.
(シー ハエク イン アミノー コーギターレ ウォレース エト ミヒ エト ティビ エト イッリース デムプセリス モレスティアム)

Ter.Ad.817-819
テレンティウス「兄弟」

 

【学習課題】

動詞3 1 直接法・能動態・未来完了

 

【語彙と文法解析】

動詞は ぱっと見 volēs でしょう。第2変化かと思い、voleō で辞書引きで、外れ。vol まで消してみて、voloが目に付きました。あ、不規則動詞だった。voloで辞書引きして、二人称・単数・未来に volēs がありました。「あなたは望むだろう」

cōgitāre も動詞っぽいですが、cōgitōで引くと第1変化動詞で、不定法が cōgitāre。「考えること」か。

animō は名詞。in + なので奪格かと思い、第2変化 animus で辞書引き。animō は第2変化の男性名詞 animus の単数・与格か奪格。ここは奪格。「心の中で」
(さらっと書きましたが、実は、問題文を写し取るとき、aminō と間違えて、辞書を探し回ることに。気を付けなければ)

in は前置詞。in animōで「心の中で」

heac は代名詞、hic の女性単数主格か中性複数主格または対格。先行するなにかを指しているのかな。ここでは中性複数対格。「これらのことを」

Sī は 接続詞で、+ 直接法で単純な可能性を表す。「もし〜ならば」

et も 接続詞。「〜と〜」

mihi は1人称の人称代名詞 egō の単数与格。「私に」

tibi は2人称の人称代名詞 tibī の単数与格。「あなたに」

illīs は指示代名詞 ille の通性複数与格。「彼・彼女らに」

molestiam は 第1変化の女性名詞の melestia の単数対格でしょう。「煩わしさを」

dempseris は、ここまで今回の学習課題が出てきていないので、未来完了ですね。活用表をみると、-eris が見つかりました。未来完了は、完了幹+sumの未来変化 のようですが、この完了幹は「 動詞幹+s 」の例にあたりそうです。何となく第3変化っぽいので、動詞幹は demō→demere→dem- ですね。で、完了幹は、dems- なら良いのですが、demps- となるのは、そういう変化なのかな。demōで辞書引きして「<対格を>取り去る」

【逐語訳】

Sī(もし)haec(これらのことを)in animō(心の中で)cōgitāre(考えることを)volēs(あなたが望めば), et mihi(私に)et tibi(あなたに)et illīs(そして彼らに)dempseris(取り去るだろう)molestiam(煩わしさを). 

 

【訳例】

 もし、あなたがこれらのことを心の中で考えることを望めば、私とあなたと彼らから、煩わしさを取り去るだろう。

 

(古典の鑑賞)

テレンティウス「兄弟」の一節でした。今回も『テレンティウス ローマ喜劇集 5』(京都大学学術出版会)を図書館で借りてきて、読んでみました。訳は山下先生です。

久しぶりに読んでみて、ふと、古き良き時代の、松竹新喜劇を思い出しました。私は門外漢なので考えたことがなかったですが、演劇を志すような人は、ローマ喜劇なんかも、当然深く学ばれているんでしょうね。

人間、生きていれば、いろいろなことがあります。田舎で家庭を持ち実直に生きてきた兄が、都会で単身成功した弟のところに訪ねてきた、というだけで、何か一悶着ありそうですが、実は、弟は兄の長男を育てていて、しかもその子が若気の至りで、生活が乱れ、いろいろ問題を抱え込んでいて、まあ、離れて暮らす兄としては、何でそういうことになったのか、とストレスが溜まっているわけです。

弟の方は、兄の気持ちは百も承知ですが、もう自分の方は現実を受け止めて、息子の人生を支えていく覚悟は十分出来ている。で、まあまあ、と兄の憤まんを鎮めようというところです。

私は一人っ子なので、よくわかりませんが、兄弟だから言える、また、言ってしまう、ということもあるでしょう。神話や英雄の話ではない、二千年まえの、普通の人間の普通の暮らしが生き生きと描かれていることに、少し感動さえ覚えます。

課題文ですが、丸めて言うと、「兄ちゃんがそういう風に思ってくれたら、丸く収まるんだけどな」という感じですね。兄はこれまで通り実直に働いて、将来、息子のために財産を残してやれよ。自分は、たまたま財力があるので、息子の生活を支えてやる。それで、いいじゃないか、と。

そう言われると、「金の話じゃない」と言いたくなるのが人情ですが、まあ、なかなか楽しめる劇ですね。訳も良いですし。現代の私たちが、普通にふれて楽しめる文学作品と思います。

  

 

latin.hatenadiary.jp

 

 

第16回課題(2021.1.9)

練習問題18-1

Patria mea tōtus hic mundus est.
パトリア メア トートゥス ヒク ムンドゥス エスト)

Sen.Ep.28.4

セネカ「倫理書簡集」

Seneca: Epistulae Morales, Liber IIII

 

【学習課題】

代名詞1 代名詞的形容詞

 

【語彙と文法解析】

動詞は est。不規則動詞 sum の直接法・能動態・三人称単数現在。「である」

patria と mundus は名詞っぽい。たぶん両方とも主格として、そのまま辞書引き。

patria は 第1変化の女性名詞 patria の単数・主格(呼格)。ここでは主格で文の主語。「祖国」

mundus は 形容詞にもあるが、ここは名詞とみて、第2変化の男性名詞 mundus の単数・主格で、文の補語。「世界」

※この文では「私の祖国=この世界全体」なので、mundusを文の主語とみることも可能です。

mea は代名詞 meus の女性・単数・主格(呼格)。複数にもあるが、patriaにかかると思われるので、単数・主格でしょう。「私の」

tōtus は第1・第2変化の代名詞的形容詞 tōtus の男性・単数・主格で、mundusにかかる。「全体の」

hic は代名詞 hic の男性・単数・主格で mundus にかかる。「この」

 

【逐語訳】

 Patria(祖国は)mea(私の)tōtus(全体の)hic(この)mundus(世界)est(である).

 

【訳例】

私の祖国はこの世界全体である。

この世界全体が私の祖国である。

 

(古典の鑑賞)

セネカ『倫理書簡集』書簡28の一節でした。今回も『セネカ哲学全集5』(高橋宏幸訳、岩波書店)を図書館で借りてきて読んでみました。最近は、京都府立図書館で借りることが多くなりました。市立にある本は府立にあるし、府立にしかない本も多いので。建築も素敵ですし。

手紙の宛先であるルーキーリウスは、何か払拭したいことがあるようで、各地を転々と旅しているようすですが、セネカは「わが生地はただ一つの片隅にあらず。わが祖国はこの世界なり」という言葉の意味を理解するなら、あちこち旅行して気晴らししようとしても、空しいことだ、と諭します。

心が晴れないのは、自身の抱える課題に向き合わないからで、それがわかっていれば、どこにいても、為すべきこと=よく生きることを自分自身に問うことは出来るはずだと。

「人間到る処青山あり」という言葉もありますが、どこか通ずるところがありますね。

ところで、今回は、この手紙の最後のくだりが、目につきました。「君自身について、できるかぎりの有罪立証をしてみたまえ。君自身を査問してみたまえ。(中略)ときには自分自身につらくあたることだ。」

ストア派の重鎮、セネカらしい至言ですね。凡人はとかく「よく生きる」ことを忘れがちですから。(笑)

 

 

latin.hatenadiary.jp

 

 

第13回課題(2020.12.12)自習

練習問題15-2

Omnis feret omnia tellūs.
(オムニス フェレト オムニア テッルース)

Verg.Ecl.4.39

ウェルギリウス「牧歌」

P. VERGILI MARONIS ECLOGA QVARTA

 

【学習課題】

動詞2 不規則動詞

 

【語彙と文法解析】

動詞はferetで、第3変化の不規則動詞ferōの直接法・能動態、三人称単数未来。-etは第2変化の三人称単数っぽいので、feretだと辞書の形はfereōだけど、何となくferōかなと。結局、ferōの活用表を調べると、不規則動詞ferōの三人称単数未来でした。不規則動詞は、覚えておかないと・・・(汗)「産出するだろう」

tellūsは主語でしょう。そのまま辞書引きすると、第3変化の女性・単数・主格(呼格)。ここでは主格。「土地は」

omnisは第3変化形容詞 omnisの男性女性・単数の主格または属格。ここではtellūsにかかって女性単数主格。「すべての」

omniaの方は中性・複数の主格(呼格)または対格で、ここではferetの目的語で対格。「すべてのものを」(形容詞の名詞的用法)

 

【逐語訳】

omnis(すべての)feret(産出するだろう)omnia(すべてのものを)tellūs(土地は).

 

【訳例】

すべての土地はすべてのものを生み出すだろう。

 

(古典の鑑賞)

ウェルギリウス『牧歌』第四歌「黄金時代がやってくる」の一節でした。前回に引き続いて、今回も『牧歌・農耕詩』(河津千代訳、未来社)を手にとって、読んでみました。

第四歌は、ウェルギリウスの最初の保護者、ポリオに捧げた詩です。ウェルギリウスに「牧歌」を書くように勧めたのもポリオ。かねてより、ポリオに詩を贈ることを約束していたのですが、ちょうどこの頃、ブルンデシウムの協定でポリオの参加するアントニウス派との戦争が回避されたので、喜んだウェルギリウスは、ようやく約束を果たすことができたわけです。

「黄金時代」については、注釈が必要です。以下は、少し長いですが、河津千代の「詩人と皇帝」からの引用です。

「イタリアは大昔、サートゥルヌスという神に支配される王国であった。この神の治世はイタリアの黄金時代であって、人民は戦争を知らず、欲もなく、大地の与える豊かなみのりを楽しんでいた。もっと多くの収穫を得ようとして母なる大地の胸を鋤で切り裂いたり、軍艦や商船を海に浮かべて、海の精の静かな住まいをかき乱したりすることもなかった。(中略)クマエの巫女の予言によれば、人間の歴史は百十年を一世紀として十世紀の間悪い方へ向かい、第十世紀の最後まで来た時に、ふたたび最初の黄金時代に」戻るとされ、「その時代の扉は、ポリオよ、あなたが執政官である間に開かれるのだ」と、ポリオをたたえつつ、ウェルギリウスは歌っているのです。

実は第四歌の詩の中で、ウェルギリウスは「その時代の扉」を開くことになる子を、早く生まれさせたまえと、祈るのですが、後に「その子」こそイエス・キリストの誕生を予言したものではないかと、「はてしないもない議論をまきおこした」そうです。

ともあれ、課題文ですが、最初、土地が作物を実らせる、というようなことを言っているのかと思ったのですが、これは言わば「生産至上」ともいうべき人間の作為を排した、かつてのイタリアの黄金時代における、自然そのものの恵みを意味しているのでしょうね。

河津訳で、「すべての土地が自らすべてを生み出し」と「自ら」を補っているのは、そういう文脈なのかなと、またひとりで頷いてしまいました。(笑)