ラテン語な日々

〜「しっかり学ぶ初級ラテン語」学習ノート〜

第36回課題(2021.6.5)

練習問題38-2

Nōminibus mollīre licet mala.
(ノーミニブス モッリーレ リケト マラ

Ov.A.A.2.657

オウィディウス「恋愛術」

Ovid: Ars Amatoria II

 

【学習課題】

様々な構文 1 非人称構文

 

【語彙と文法解析】

動詞は licet でしょう。第2変化動詞 licet -ēre の直説法・能動態・現在 三人称単数で、+不定法で「〜することが許されている」

mollīre は動詞の不定法ですね。第4変化動詞 molliō -īre の不定法で、「和らげること、緩和すること」

Nōminibus は第3変化名詞(中性)nōmen の複数・与格または奪格。ここでは動詞が間接目的語をとらないので奪格(手段の奪格)で「名前によって」。

mala は目的語でしょう。おそらく単数ではないので、verbum, verbaの変化だとして、malum で辞書引き。第2変化名詞 malum の中性・複数・主格(呼格)または対格。ここでは対格で「欠点を」

非人称構文で、licet は主語が不定法、人が与格ですが、「〜にとって」の与格は省略されています。つまり一般論なので、特に誰ということはないのでしょう

 

【逐語訳】

Nōminibus(名前によって)mollīre(和らげることが)licet(許されている)mala(欠点を).

 

【訳例】

名前によって欠点を和らげることが許されている。

 

(古典の鑑賞)

オウィディウス「恋愛術」第2巻の一節でした。今回も『恋愛指南ーアルス・アマトリアー』(沓掛良彦岩波文庫)を図書館で借りてきて読んでみました。

何冊か一緒に借りたのですが、この本の装丁、表紙が「マイナデスを誘惑するサテュロス」という名のポンペイ壁画(一世紀)となっていて、少し刺激的と思われたのか、本を重ねるときに、すっと下の方に入れて(隠して)くれました。かえって、こちらが恥ずかしくなりますよね。(笑)

さて、「恋愛術」からの課題は5回目、この課題文も2回目です。最初の頃は、単語は辞書の丸写し。感想文は、解説の紹介だったり、ストーリーを追ってみたりでしたが、最近は、作品そのものを少し楽しめるようになってきたような気がします。

もともと、日本文学からして、素養の無い私、ラテン文学でもないのですが、まあギリギリ、ギリシャ哲学に関心があったので、何とか興味を持てるかなと頑張っているうちに、『牧歌・農耕詩』(河津千代訳)に出会い、河津先生の『詩人と皇帝』を読んでみたあたりから、ラテン文学そのものに、興味が持てるようになってきたようです。

で、この作品ですが、ネットではあまり評判がよろしくありません。まあ、オウィディウスに興味がなければ、読まなければいいわけですが、何かの拍子で読まれた方が、なんだかただの猥雑な作品じゃないかと感じられるのも、わかります。

一方の代表作の『変身物語』がある意味、難解な作品である分、古典作品としての「ありがたみ」を感じられるのに対して、この作品は「わかりやすい」ので、ある種ホッとするというか、コメントしやすい作品、という面もあるでしょうね。

とはいえ、この作品、ローマ文学が歴史に誇る恋愛教訓詩です。話が脱線しますが、映画「プラダを着た女」で、強烈な個性を放つ編集長が、編集者を目指す主人公のファッションへの無知を小気味よいテンポで喝破するシーンがありますよね。世に「セルリアン説法」とも呼ばれているようですが、私のお気に入りの名シーンです。

説明すると長くなりそうですが、要は世の中に広く流通し、何気なく目にしているものでも、デザイナーによって緻密に計画され、巨大な生産・流通システムを経て、最後にあなたの目にふれたものなのよ、あなたは知らないでしょうけど、というお話です。

最近、よく思うのですが、この2千年も前の作品を、どうして私が読んでいるのか、不思議ですよね。それは、歴史の淘汰に耐えた作品、吟味され、さまざまに解釈され、後世の名だたる思想家、芸術家、社会の指導者たちに計り知れない影響を与えてきた作品なのですよね。

だから何だということもないのですが、ラテン文学にふれること、ラテン語を学ぶということは、その歴史の重みを感じること、なんじゃないかなと。

まあ、そういうことも、考えてみると、また作品を見る目も変わってくるかも知れません。昔、朝日新聞に「世界 名画の旅」という連載があったのですが、レジェの「余暇」という作品について「人物の表情なんかに大した意味はない。レジェが苦しんだのはコントラストだ。」と語られる文脈がありました。

オウィディウスにとっても、アルス・アマトリア=恋の技法は単なる素材に過ぎなかった、というと言い過ぎでしょうか。オウィディウスが腐心したのは、恋の歌を格式あるエレゲイア詩として確立すること。

そして、オウィディウスの名を後世に留めたのは、まさに、この作品で、それまでの「恋愛詩」とは異なる新たなジャンル、ローマ恋愛詩の正統、エレゲイア詩形を打ち立てた、という功績によるのです。

目の前に普通にあるものの、真の輝きが見えてくる。それが、学ぶということの意味であり、楽しさでもありますね。

 

 

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latin.hatenadiary.jp

 

 

 

第34回課題(2021.5.22)

練習問題36-1

Ōrandum est, ut sit mens sāna in corpore sānō.
(オーランドゥム エスト ウト シト メンス サーナ イン コルポレ サーノー

Juv.10.356

ユウェリナース「風刺詩」

Juvenal X

 

【学習課題】

動詞5 2 接続法の複文での用法(1) 名詞節、形容詞節での用法

 

【語彙と文法解析】

主文の動詞は est。不規則動詞 sum の直説法・能動態、3人称単数現在。動形容詞の非人称表現のかたちで、「〜なされるべき」

従属節の動詞は sit。不規則動詞 sum の接続法・能動態、3人称単数現在。「存在しますように」

ōrandum は 第1変化動詞 ōrō「懇願する、祈る」の動名詞か動形容詞。ここでは中性・複数+estの形で、動形容詞の非人称表現。ut + 接続法で「ut 以下のことが祈られるべきである」

mens は第3変化名詞(i幹)mensの女性・単数・主格。「精神、心」

corpore は第3変化名詞 corpus の中性・単数・奪格。「身体、肉体」

sāna は第1・第2変化形容詞 sānus の女性・単数・主格(呼格)または中性・複数・主格(呼格)か対格。「(精神的に)正常な、健全な」。ここでは、mensにかかって女性・単数・主格。

sānō は sānus の男性または中性の単数・与格か奪格。ここではcorpreにかかって、中性・単数・奪格。「健康な」

in は前置詞で、+奪格 で「〜の中に」

 

【逐語訳】

Ōrandum est, ut(〜と祈られるべきである)sit(存在しますように)mens(精神が)sāna(健全な)in(〜の中に)corpore(健康な)sānō(肉体).

 

【訳例】

健全な精神が健康な肉体の中に存在しますようにと祈られるべきである。

健全な肉体に健全な精神が宿るようにと祈るべきである。

 

(古典の鑑賞)

ユウェナーリス「風刺詩」10巻の一節でした。今回は、『サトゥラェ−諷刺詩』(藤井昇訳、日中出版)が古本で手に入ったので、こちらを読んでみました。

この課題文は、「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」という言葉が実は誤りである、というエピソードを添えて紹介されることが通例のようで、さらにこの「実は誤りである」という解釈も斯く斯く然々の理由で「本当は的外れである」というような解説まであるようです。

この課題文は2回目なのですが、私も、前回は「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」というのはかのナチスのスローガンとして広まったというような紹介をしたと記憶しています。

10巻の部分だけでも、読み通すのは骨が折れますが、この藤井訳、なかなかこなれていてとても読みやすいです。そもそも文庫本と違い、字が大きいので助かります(笑)。それで、何とか、ざっと読んで味わってみたのですが、文脈的には、藤井訳の「健全なる肉体に健全なる精神が宿るようにと希(ねが)うべきである」という訳に、不自然さはないと感じました。

もちろん、健全なる精神のために健全なる肉体を、というような文脈はどこにもなく、この一節は、ユウェナーリスの生きた時代に広く影響を持っていた、ストア哲学や「真の」エピクロス哲学が主張するごとく、「死への怖れを持たず、生命あるひとときを「自然」の恵みのうちに最後のものと考え、どんな労苦にも耐えられ、怒ることを知らず、何ものも求めず、ヘラークレースの艱難辛苦をば、(贅沢もて鳴りしアッシリア最後の王)サルダナパロスの性楽や夕食や羽布団より良しとする強き精神を求めたまえ」「まことに美徳を通じてのみ、平静なる人生の路は開けている」(藤井訳)という主張につながるものと思われます。

ここで健全なる肉体とは、自然の理にかなった身体(と心)の有り様であり、健全なる精神とは、徳を最高善として求める心(と身体)の有り様のことでしょう。前者に重心をおけばエピクロス哲学、後者に重きをおけばストア哲学、というわけです。

「健全なる肉体に健全なる精神が宿るようにと希(ねが)うべきである」ということは、基本的にストア哲学なのでしょうね。

ところで、上記のくだり、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」に通ずるものがありますね。「サウイフモノニワタシハナリタイ」という願いは、まさに「健全なる精神」を求めるストア哲学の「希(ねが)い」そのもの、だったのでしょうか。

文法的には、接続法が学習課題なので、「sit」をどうみるかという点がポイントでしょう。まず、接続法なので「意思、願望」を表現しています。「〜しますように」

また、この場合のsumは、繁辞(〜である)ではなく、存在詞(ある)でしょう。動詞の主語は mens。主格補語の可能性もあるかも知れませんが、「(われわれが)健全なる肉体の中で、健全なる精神になりますように」と、少々文意が通りにくいです。

Ōrandum est も重要な要素でしょう。これは動形容詞の非人称表現で、「ある行為がなされねばならない」という意味を表しています。英訳は「ought to」や「should」となっているようですが、わざわざ「〜することが正しい」「〜した方が良い」というからには、何か思想的な背景のある主張がなされるはずです。

で、虚心坦懐に眺めれば、希うべきは、「健全なる精神が存在するように」ということなので、スポットライトはやはり「健全な精神」の方にあたっていると思われます。

この辺り、まさに「ここぞと言うときのラテン語文法」と言えるかも知れませんね。

「直訳は誤訳の元」という主張も見かけましたが、ここはラテン語学習のブログなので、まずは直訳。これが誤訳を避けるための本則、であります。

 

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第25回課題(2021.3.13)

練習問題27-4

Aliēnīs perīmus exemplīs: sānābimur, sī sēparāmur modo ā coetū.
(アリエーニース ペリームス エキセムプリース、サーナービムル、シー セーパラームル モド アー コエトゥー)

Sen.Vit.1.4

セネカ「幸福な人生について」

Seneca: On the Good Life

 

【学習課題】

動詞4 直接法・受動態(2)完了、未来完了、過去完了

 

【語彙と文法解析】

perīmus は 不規則動詞 pereō の直接法・能動態・現在、1人称・複数。「我々はだめになる」

sānābimur は第1変化動詞 sānō の 直説法・受動態・未来、1人称・複数。「我々は治療されるだろう」

sēparāmur は第1変化動詞 sēparō の直説法・受動態、現在、1人称・複数。「我々は分けられる」

exemplīs は第2変化名詞 exemplum の中性・複数・与格または奪格。ここでは奪格で「先例によって」

coetū は 第4変化名詞 coetus の男性・単数・奪格。「集団」

Aliēnīs は 第1・第2変化形容詞 aliēnus の通性・複数・与格または奪格。ここでは奪格。「他人の」で exemplīs にかかる。

modo は 副詞で「ただ…だけ」

sī は 接続詞で「もし…ならば」

ā は 前置詞で「〜から」

 

【逐語訳】

Aliēnīs(他人の)perīmus(我々はだめになる)exemplīs(先例によって): sānābimur(我々は治療されるだろう), sī(もし〜ならば)sēparāmur(我々が分けられる)modo(ただ〜だけ)ā(〜から)coetū(集団).

 

【訳例】

我々は他人の模倣によってだめになる。ただ単に集団から離れるだけで、我々は健康になるだろう。

 

(古典の鑑賞)

セネカ「幸福な人生について」の一節でした。今回も『人生の短さについて』(茂手木元蔵訳、岩波クラシック)で読んでみました。

今回の課題文は1節にありますが、全体で28節あり、言わば冒頭部分。で、結局何が言いたいんだろうと思い、通読してみたのですが、これが思いの外辛かったです。

3節で一応、幸福な人生に到達するために必要な目標と行程について、以下のごとく、結論が述べられています。

<目標>=何を行うのが最善であるか
 〇我々は自然の定めに従う。自然の法則と理想に順応して自己を形成すること

<行程>=自然に適合した生活であるためには、次の方法以外にはない
 〇心が健全であること
 〇心が忍耐強く、困ったときの用意ができていること
 〇何事にも驚嘆せず、運命に従うが、その奴隷にならないこと

これで「これ以上蛇足を加えなくても理解されるであろう・・・」と締めているので、「後25節ありますけど?」という感じなのですですが(笑)、次の4節ではまた「以上とは別の言い方で、われわれの言う善を定義することもできる」と、切り口を変えながら、淡々と語り始めるので、今回は、ラテン語学習らしく?、この切り口が変わっていくところの、ちょっと口癖のような「それゆえ」という訳語に対応する単語を拾ってみました。

1節 itaque…「まず念頭におくべきことは、われわれの努力すべき目標は何か」、ergo…「何より大切なことは、先を行く群れの後に付いて行くような真似はしない」

2節 ergo…「われわれが知ろうとするのは、一体何を行うのが最善であるか」

3節 ergo…「幸福な人生は、人生自体の自然に適合した生活である」

4節 itaque…「最高の善とは偶然的なものを軽んじ、徳に喜ぶ心である」「それは心の不屈な力であり、物事に経験が豊かであり、身振りが静かであるとともに、人情に厚く、交際にも思いやりのあること」

5節 ergo…「幸福な人生とは、公正で確実な判断に基づく安定した不変の生活」

6節 ergo…「幸福な人は、判断の正しくできる者である」「自己の生活の在り方を理性から委されている者である」

7節 ita…「瞬く間に来ては去り、自らを浪費することだけで死滅するものには、何らの実体の存することも不可能である」

8節 ergo…「幸福に生きるということは、自然に従って生きることである」、 Quare…「大胆にこう宣告してもよい—最高の善は心の調和である—と」「協調と統一が存するところには、必ずや徳が存するからである」

9節 itaque…「徳から何を求めるのか。徳そのものをである」「すなわち徳は徳以上に善いものをもっておらず、徳そのものが徳の価値なのである」「最高の善は、砕けることのない心の強さであり、識見であり、気高さであり、健全さであり、自由であり、調和であり、優美さである」

12節 ergo…「快楽を徳に巻き込むようなことはやめさせようではないか」

15節 ergo…「最高の善が登るべきところは、いかなる力によっても引き下ろされないところであり、苦痛も野望も恐怖も、要するに最高の善の機能を弱めるものは一切近づき得ないところでなければならぬ。そのようなところへ登ることができるのは徳だけである。

16節 ergo…「真の幸福は徳の中に存している」

まだ、この後12節ほど続くのですが、一応、論証は終わっていますよね。とりわけ、Quare で始まる8節の一文がクライマックス。概ね9節までが、骨太の主張のようです。

ちなみに、この後は、ergo が23節、24節、25節に1回ずつ見られるだけで、まるで別の機会に書いたもののようでした。

通読してみて、今回の課題文の「他人の模倣によってだめになる」という意味が何となく分かったような気がしました。

課題文の perīmus は「(人が)破滅する、だめになる」とかなり厳しい言葉ですが、これは刹那的な快楽が「自らを浪費することだけで死滅するもの(peritūrum)」であるという、皮相な快楽主義への批判へと、イメージ的につながっているようです。「他人の模倣」というのは、こうした「外部からの刺激」への追従、いわば快楽の奴隷となることの比喩かも知れませんね。

 

<気になるラテン語

セネカ「幸福な人生について」より〜

幸福な人生:beātus vīta

真の幸福:vēra fēlīcitās

最高善:summum bonum

最善:optimus bonus

最良の精神:optimae mentīs

心の調和:animī concordiam

徳:virtūs -ūtis, f, 第3変化名詞

快楽:voluptās -ātis, f, 第3変化名詞

自然:nātūra -ae, f, 第1変化名詞

精神:animus -ī, m, 第2変化名詞

先例:exemplum -li, n, 第2変化名詞

道理:ratiō, -ōnis, f, 第3変化名詞

模倣:similitūdō -dinis, f, 第3変化名詞

 

セネカ著作 年表】

道徳論集

「慰めについて」(37年〜41年)
「怒りについて」(41年)兄アンナエウス・ノバトゥス宛
「人生の短さについて」(49年)パウリヌス宛(ローマ食料長官)
「かぼちゃになった王様」(54年)
「賢者の不動心について」(55年)友人セレヌス宛
「寛容について」(56年)皇帝ネロ宛
「幸福な人生について」(58年)兄ガイオ宛(兄ノバトゥスの養子先の名)
「余暇について」(62年)同
「心の平静について」(63年)同
「善行について」(63年)年来の友アエブティウス・リベラリス宛
「神慮について」(64年)若き友人ルキリウス宛

道徳書簡と自然研究

「道徳書簡」(62年〜65年)同
「自然研究」(62年〜65年)同

悲劇作品

「狂えるヘルクレス」
「トローイアの女たち」
「ヒッポリュトゥス」
「オエディプス」
アガメムノン
「テュエステス」
「ポエニーキアの女たち」他

 

 

第27回課題(2021.3.27)

練習問題29-4

Dulce et decōrum est prō patriā morī.
(デュルケ エト デコールム エスト プロー パトリアー モリー

Hor.Carm.3.2.13

ホラーティウス「カルミナ」

Horace: Odes III

 

【学習課題】

動詞4 不定

 

【語彙と文法解析】

動詞は est で不規則動詞 sum の直接法・能動態・現在、三人称・単数。「〜である」

構文は、dulce と decōrum は prō patriā morī である、かな。逆に、prō patriā morī は dulce で decōrum である、かも。

とりあえず morī がキーになると思い、辞書引き。第3変化動詞B morior の不定法でした。「死すことは」で文の主語かな。

patriā は 第1変化名詞 patria の女性・単数・奪格。「祖国において」など。

prō は 前置詞 で +奪格で 「〜のために」など。ここでは、prō patriā で「祖国のために」か。

Dulce は第3変化形容詞 dulcis の中性・単数・主格(呼格)または対格。ここでは文の補語で主格。形容詞の名詞的用法。「甘い」「快い」

最初、副詞と思いました。副詞は基本、補語にならないかな。山下先生のコメント添えます。不定法は中性・単数で受けるんですね。

主語morīが不定法・現在なので、補語となるdulceは中性・単数で受けます。
decōrumも同様です。
例)Errāre hūmānum est. (間違うことは人間的である)のhūmānumは「中性・単数・主格」となります。

et は 接続詞で「そして」

decōrum は 第1・第2変化形容詞 decōrum の中性・単数・主格(呼格)または対格。ここでは文の補語で主格。「美しい」

 

【逐語訳】

 Dulce(快く)et(そして)decōrum(美しい)est(である)prō patriā(祖国のために)morī(死すことは).

 

【訳例】

祖国のために死すことは快くそして美しい。

 

(古典の鑑賞)

ホラーティウス『カルミナ(歌章)』の第3巻の一節でした。今回も『ホラティウス全集』(鈴木一郎訳、玉川大学出版部)を図書館で借りてきて読んでみました。

ウェルギリウスといえば「アエネーイス」、ホラーティウスといえば「カルミナ」と言われるくらいのホラーティウスの代表作です。全4巻ですが、1〜3巻が前23年に公表され、4巻は前14〜13年と少し時期がずれます。

世は、オクターウィアーヌスがローマ帝政の基盤を固めつつある時代。より大きくとらえれば、アクティウムの海戦に勝利(前31年)して、プトレマイオス朝に終止符をうった、ヘレニズムからパックス・ロマーナへの移行期です。

ヘレニズム時代は、言わばギリシャ文化の世界で、共和制ローマの時代から、カエサルをはじめ、ローマの指導者たちは、アレクサンドリアを訪れ、前3世紀には建設されていた図書館の膨大な量のギリシャ語の図書を眼前にして、覇権を広げるローマにふさわしい新しい文化の拠点として、ローマに図書館の建設を夢見たのでした。

前28年、完成した図書館には、ギリシャ語図書の部とラテン語図書の部があったそうですが、地中海世界の覇者となった帝政ローマにとって、ラテン語図書の充実が求められたのは、当然でしょうね。この時期、「ローマ建国史」(リヴィウス)、「事物の本性について」(ルクレティウス)、「アエネーイス」(ウェルギリウス)などローマ文学の巨星が一斉に登場したのも、偶然ではないでしょう。

実は、ホラーティウスの庇護者、マエケーナースはオクターウィアーヌスの参謀を務めた人物で、軍事のアグリッパ、外交・文化のマエケーナースと伝えられているのですが、マエケーナースの周りに出来た文人サークルには、ウェルギリウスをはじめ当時の文化人が集い、ホラーティウスウェルギリウスらとの出会いを通じて、このサークルに参加することになったのでした。

カルミナは、こうしてローマ詩壇に活躍の場を得たホラーティウスの目を通して、激動期とも言える時代を、少し引いた目線で、やや面白がって見つめた詩人の作品として、とても魅力的な詩集となっていて、ローマ史とともに学ぶといろいろ発見がありそうです。

さて、課題文の方ですが、カルミナ第3巻の2の一節で、第3巻の1から6までは、特にアウグストゥスの強い意向による、とも言われ、6歌とも市民にローマの伝統的な倫理観を説く、やや官製の説教調の、いわばホラーティウスらしくない詩調となっているのが、個人的には残念なところではあります。

まあ、しかしながら、カルミナから6年後、ホラーティウスは「ローマ百年祭」の讃歌を依頼され、詩壇の頂点に上り詰めたのでした。

マエケーナースは、その死に際して、皇帝に「私のことのようにホラーティウスのことをよろしく」と頼んだそうです。マエケーナースは、ホラーティウスにもう一度、「諷刺詩」の時代のような詩を、書いて欲しかったのではないかなと、ふと思いました。

 

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ホラティウス全集」796ページの圧巻です

 

 

 

 

第31回課題(2021.4.24)

練習問題33-5

Quid enim est jūcundius senectūte stīpātā studiīs juventūtis?
(クイドゥ エニム エスト ユークンディウス セネクトゥーテ スティーパーター ストゥディイース ユウェントゥーティス)

Cic.Sen.28

キケロー「老年について」

  

【学習課題】

代名詞2・その他

 

【語彙と文法解析】

動詞は est で不規則動詞 sum の直説法・能動態・現在、三人称・単数。「である」

enim は接続詞でしょう。ラテン語の接続詞は2番目に来ることが多いと、先日のラテン語講読の時間に教えて頂きました。「というのも」「確かに」

Quid は疑問代名詞 quis の中性・単数・主格で、「何が」

juventūtis は 第3変化名詞 juventūs の女性・単数・属格。「青春時代の」「若者たちの」

studiīs は第2変化名詞 studium の中性・複数・奪格。「熱意によって」

stīpātā は 第1・第2変化形容詞(完了分詞の受動態 <stīpō)stīpātus の女性・単数・奪格。「取り囲まれた」

senectūte は 第3変化名詞 senectūs の女性・単数・奪格。比較の奪格で「老年より」

jūcundius は 第1・第2変化形容詞 jūcundus の比較級で、中性・単数・主格。「より快い」「より楽しい」

 

【逐語訳】

Quid(何が)enim(というのも)est(であるか)jūcundius senectūte(老年より楽しい)stīpātā(取り囲まれた)studiīs(熱意によって)juventūtis(若者たちの)?

 

【訳例】

というのも、若者たちの熱意に取り囲まれた老年より快いものは何であるか?

というのも、若者たちの熱意に取り囲まれた老年より喜ばしいものがあるだろうか?

 

(古典の鑑賞)

キケロー「老年について」の一節でした。今回は、とうとう『老年について 友情について』(大西英文訳、講談社学術文庫)をKindle版で購入して読んでみました。4月で還暦を迎えた記念です。(笑)

「老年について 友情について」は今回で4回目。キケローの老年論は快活なので、シニアに足を踏み入れんとする私には、応援歌です。

キケローが62歳頃の作品らしく、今の私より2歳年上ですが、キケローは史上最年少の法定年齢 43歳で執政官まで上り詰め、共和制末期の激動期を政治の中枢で生きたわけで、もちろん凡庸な人生を送りつつ、老年を迎えようとしている私などとは、全く生きる世界が違うのですが。

まあしかし、古今東西、「老い」は、人間にとって普遍的なテーマですから、「老年について」はキケローの作品の中では「友情について」とともに最もポピュラーな作品として、多くの人々に愛されているようです。

さて、キケローは、老年が惨めなものと映る理由として、(1)諸々の活動から身を引かされ、(2)肉体が衰え、(3)快楽を奪い去され、(4)死が間近であることを挙げ、その各々について豊富なエピソードを交えて、反駁していきます。

まず、老人は、実際には幅広く社会の活動に携わっていることを例示し、また、国政の指導、若者の教育など、老人にふさわしい仕事があり、それは、歳を重ねてこそ得られる老人の精神力、賢慮、理性の力によるのだ、とします。

確かに、歳をとると、記憶力も体力も衰える。ただし、それは鍛錬を怠ったり、生来、魯鈍である場合である、とさすがに手厳しいのですが、まあ実際は、やみくもな体力を必要とすることもなく、むしろ、自分のもてる力相応のことをするのが、ふさわしい行動というものである、と説きます。

次に、快楽ですが、精神にとって快楽ほど危険な敵はない、といつものエピクロス派への批判を展開する一方、老人も相応の快楽を享受できるし、過度にならない分老人に分があるとし、何より精神的快楽を得られる学問や農作の営みは、青年の快楽をすべて集めても及ばない価値がある、云々。

死については、結局、どの年代についても共通のもので、死は自然の必然、摂理であり、賢明な人間なら従容として受け入れるべきだとし、個体は死すとも、世代交代を繰り返す、悠久の自然の営みに思いを馳せます。

で、今回の課題文。老人にふさわしく、また老人の喜びでもある行為として若者の教育への役割を説く場面なのですが、つまりは、世代交代。生涯にはそれぞれの時期に意味があり、ここから青春だけ、老年だけを切り離してみる世代観は無意味である、ということのようです。

jūcundius は「より楽しい」ですが、老人の眼差しの向こうにあるものは、若者たちの未来、100年後の社会のすがたと思えば、もう少し目線が高くなりますね。

「実際、若者の情熱に囲まれた老年ほど喜ばしいものが他に何かあるだろうか」(大西訳)

ラテン語に出会えて良かったと思える瞬間です。

 

キケロー著作年表】

  • 弁論家について(55年)
  • 国家について(54年-51年)
  • 法律について(51年。未完)
  • ブルートゥス(46年)
  • ストア派パラドックス(46年)
  • ホルテンシウス(45年春。散逸)
  • 善と悪の究極について(45年5-6月)
  • アカデミカ(45年5-6月)
  • トゥスクルム荘対談集(45年6-8月)
  • 神々の本性について(45年6-8月)
  • 大カトー・老年について(44年。3月15日のカエサル暗殺より以前)
  • 占いについて(第2巻以降は44年3月15日以後)
  • 宿命について(44年5-6月)
  • ラエリウス・友情について(44年夏または初秋)
  • 義務について(44年10月末-11月)
  • ピリッピカ(44年9月-43年4月)

 

第23回課題(2021.2.27)

練習問題25-4

Superanda omnis fortūna ferendō est.
(スペランダ オムニス フォルトゥーナ フェレンドー エスト)

Verg.Aen.5.710

ウェルギリウスアエネーイス

P. VERGILI MARONIS AENEIDOS LIBER QVINTVS

 

【学習課題】

代名詞1 分詞・動名詞・動形容詞 3 動形容詞

 

【語彙と文法解析】

動詞は est。不規則動詞 sum の三人称単数現在。「〜である」

fortūna は第1変化名詞 fortūna の女性・単数・主格(呼格)。ここでは主格。「運命は」

ferendō は fortūna にかかる形容詞っぽいですが、動名詞、動形容詞かも。動詞は 不規則動詞 ferō かな。現在分詞が fere-ns。動名詞が fere-ndum、動形容詞 ferend-us で、ferendōは、動名詞でも動形容詞でも、与格か奪格でした。動形容詞とすると、男性か中性の単数で与格または奪格。あれ?女性じゃない。fortūnaにかかるんではないんだ。ということは、ここでは、動名詞で奪格。「耐えることによって」

omnis は、第3変化形容詞 omnis の男性女性・単数で主格(呼格)または属格。fortūna にかかるので、女性・単数・主格。「すべての」

Superanda は動形容詞(動名詞の活用に-aがないので)でしょうね。元の動詞はsuperõ でした。不定法 -āre で第1変化動詞。動名詞 supera-ndum、動形容詞 superand-us。Superanda は、動形容詞 sperandus の女性・単数・主格(呼格)か、中性・複数・主格(呼格)または対格。ここでは fortūna にあわせて女性・単数・主格で「(乗り)越えられるべき」。文の補語で、動形容詞の述語的用法。
※superōは「越える」ですが主語 forutūna「運命」は「越えられる」側なので、ラテン語動形容詞の直訳は「越えられるべき」となる。日本語では「越えるべき」が自然

 

【逐語訳】

Superanda(乗り越えられるべき)omnis(すべての)fortūna(運命は)ferendō(耐えることによって)est(〜である).

 

【訳例】

すべての運命は耐えることによって乗り越えるべきである。

 

(古典の鑑賞)

ウェルギリウスアエネーイス」第5巻の一節でした。今回は泉井久之助訳・岩波文庫杉本正俊訳・新評論の『アエネーイス』を読んでみました。

第5巻は、ディードーを裏切り(第4巻)、冥界で父に自身の運命を知らされる(第6巻)という重いストーリー展開の間にあって、ちょっと小休止といった趣です。

カルタゴを出て、イタリアに向かう途中、また悪天候シチリア島に避難したアエネーアースらは、トロイアにゆかりのあるアケステース王の歓待を受け、この地に骨が安置されていた父アンキーセースの供養をする一方、父の墓前に捧げるため、艦隊をあげての軍事パレードや競技会のようなことを始めます。

その間、トロイアの貴婦人たちは、海岸で、アンキーセースの死を悼みつつ、「ああ、もう波を越えて行くことには疲れてきた。まだどれほどのこんな海が残っているのか」と、嘆き、都を恋しがったのですが、そこで、またぞろ、ユーノー女神のさしがねで、女性たちは混乱状態に陥り、なんと、艦隊の船に次々と火を放ったのです。

何とか、艦隊の全滅は免れたのですが、呆然とするアエネーアース。ここで、古武士ナウテースがアエネーアースを慰めつつ、語った言葉が、今回の課題文でした。

「女神の御子よ、運命の示す方向へ行きましょう。何処へ進むことになろうと、また、たとえ引き返すことになっても、運命というものは、それを引き受けることでしか乗り切ることはできません。どんな事態が待ち受けていようともです。」(杉本訳)

泉井訳は、韻文調の訳です。

「女神のみ子よ運命が、
どこにわれらを連れて行き、また返してもわれわれは、
従うことにいたしましょう。この上何が起ころうと、
すべて運命なるものは、忍耐でしか勝てません。」(泉井訳)

結局、アエネーアースは、旅に疲れた女性たち、お年寄り、体の弱い人、この地に留まりたいものをここに残して、「獰猛苛烈な一族」だけを引き連れてイタリアに向かうことになります。

この地の王アケステースは、トロイアの人々のまちができることを喜び、エリュクス山に、神殿を建てたとのことですが、調べてみると、山頂付近にその遺跡があるようです。ただ、ネット上には、その後、神殿の上に城が築かれたという記述もあり、ハッキリしません。この辺りは、やはり実際に行ってみると、自分なりに発見もありそうです。

ちょっと興味が湧いたので、Google Mapでかの地に行ってみました。写真は、古代エリュクスのまちがあったと思われる、エリュクス山(現在のサン・ジュリアーノ山)の中腹あたりです。正面の建物は修道院、その遥か海の向こうがカルタゴです。

イタリア、行ってみたいですね〜。

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正面はサンタ・アナ女子修道院。その遥か向こうの海を渡るとカルタゴです

 

ja.wikipedia.org

 

 

第21回課題(2021.2.13)

練習問題23-4

Jūcundī actī labōrēs.
(ユークンディー アクティー ラボーレース)

Cic.Fin.2.105
キケロー「善と悪の究極について」

Cicero: de Finibus II

 

【学習課題】

分詞・動名詞・動形容詞 1分詞(現在分詞・完了分詞・目的分詞・未来分詞)

 

【語彙と文法解析】

むずかしい。眺めているとどれも動詞っぽいですが、だいぶ悩んだ末、動詞はsumで略されているのかなと思いました。

actī も動詞っぽいので、これが分詞かなと思い、完了分詞と見込んで、第1・第2変化形容詞の変化(actus、actī、actō、actum、actō)から、actusで辞書引き。actus は 第3変化動詞 agō の完了分詞で、意味はいろいろありますが、「行う、果たす」あたりか。この辺りは答を知っているので(汗)。actī は 次のlabōrēs にかかるので、男性・複数・主格。完了分詞で「果たされた状態の」。

labōrēs は 形容詞 actī が修飾するので名詞で主格。labōrで辞書引き。辞書見出しはlaborでした。labōrēsは、第3変化の男性名詞 labor の複数の主格(呼格)か対格。ここでは、主格で「労働は、苦難は」

最後に Jūcundī は文の補語で、名詞か形容詞。可能性はいろいろありそうですが、形容詞の述語的用法として、labōrēs に性数格が一致するとすると、男性・複数・主格。第1・第2変化形容詞の複数・主格なら合いそうです。jūcundus で辞書引き。「快い、楽しい」

 

【逐語訳】

 Jūcundī(快い)actī(果たされた状態の)labōrēs(労苦は)(sunt).

 

【訳例】

果たされた労苦は快い。

 

(古典の鑑賞)

キケロー『善と悪の究極について』第2巻32章の一節でした。今回も、「キケロー選集10」(永田・兼利・岩崎訳、岩波書店)を図書館で借りてきて読んでみました。第10巻は、選集の中でも人気が高いようで、古本でも高値がついていて、なかなか手が出ないです。

キケローのこの著作は、今回で5回目なので、ちょっとがんばって1〜2巻を通読してみたのですが、だいぶ辛かったです。(笑)

第1巻では、キケローの年下の友人でエピクーロス派のトルクワートゥスにエピクロス哲学の主張を語らせ、第2巻で、キケローがこれを吟味していくというかたちで、論を進めています。

まず、1巻ですが、当然と言えば当然ですが、キケローがエピクロス哲学の少なくとも倫理学について、おそらくは自然哲学についても、当代一流の理解をしていたんだな、と感じました。だからこそ、ローマを思い、祖国愛と名誉と賞賛を何よりも重んじ、自己犠牲を厭わない精神性を大切にしたキケローは、エピクロス派が多くの大衆の心をつかんでいたことに、強い危機感を持ったのでしょうね。

第2巻では、キケローによるエピクロス哲学の吟味が展開されます。エピクロスの「教説と手紙」などを読むと、キケローによるエピクロスの主張の紹介について「そんなこと書いてあったかなぁ」というのもいろいろありそうですが、アリスティッポス(快楽を最高善と説く)からヒエローニュモス(苦痛の不在を最高善と説く)、カルネアデース(快楽と徳の結合を説く)云々と続く、哲学史の紹介のくだりは、わかりやすかったです。

2巻も後半になると、エピクロスの吟味から離れぎみで、自身の最高善である「高潔」(正義、知性と理性、真実への欲求、秩序と節度)についての論を、さまざまな人物のエピソードの紹介を通じて展開し、君(トルクワートゥス)も、将来、しかるべき地位についたとき、最高善は快楽である、などとは言えないのだよ、と説きます。この辺りは、少々論が飛躍している感じですが、キケローの危機感は、十分に伝わってきます。

さて、課題文のくだりですが、「済んだ苦労は愉快なもの」という諺として登場しますが、文脈的に、論旨を追うことがむずかしかったです。

ただ、エピクロス哲学の吟味を始めるにあたって、エピクロスの「快」ἡδονή(へードネー)のラテン語訳は、主に肉体的な快楽を表現する voluptās(ウォルプタース)となるが、「快い」jūcundum(ユークンドゥム)という言葉もある、と紹介しているので、ここは「苦が快楽になる」と読んで、エピクロスを少々茶化している部分なんでしょうね。

その後、キケローの著作の影響か、エピクロス学派は消滅し、唯物論が再び歴史に登場するには、15世紀になってルクレーティウスの『事物の本性について』が発見されるまで、待たなければなりませんでした。

エピクロス哲学への謂われなき批判については、以下の文章がその回答となるでしょうか。

「それゆえ、快が目的である、とわれわれが言うとき、われわれの意味する快は、(中略)道楽者の快でもなければ、性的な享楽のうちの存する快でもなく、じつに、肉体において苦しみのないことと霊魂において乱されない(平静である)こととにほかならない」(メノイケウス宛の手紙より『エピクロスー教説と手紙』出隆・岩崎允胤岩波文庫

エピクロスは、「(苦がなければ)もはや快を必要としない」(同上)とも言っているので、「快」とは、精神的・肉体的苦痛からの解放という哲学的課題の象徴だったのかなと、私は思うのですが。