ラテン語な日々

〜「しっかり学ぶ初級ラテン語」学習ノート〜

第19回課題(2021.1.30)

練習問題21-4

Sī haec in animō cōgitāre volēs, et mihi et tibi et illīs dempseris molestiam.
(シー ハエク イン アミノー コーギターレ ウォレース エト ミヒ エト ティビ エト イッリース デムプセリス モレスティアム)

Ter.Ad.817-819
テレンティウス「兄弟」

 

【学習課題】

動詞3 1 直接法・能動態・未来完了

 

【語彙と文法解析】

動詞は ぱっと見 volēs でしょう。第2変化かと思い、voleō で辞書引きで、外れ。vol まで消してみて、voloが目に付きました。あ、不規則動詞だった。voloで辞書引きして、二人称・単数・未来に volēs がありました。「あなたは望むだろう」

cōgitāre も動詞っぽいですが、cōgitōで引くと第1変化動詞で、不定法が cōgitāre。「考えること」か。

animō は名詞。in + なので奪格かと思い、第2変化 animus で辞書引き。animō は第2変化の男性名詞 animus の単数・与格か奪格。ここは奪格。「心の中で」
(さらっと書きましたが、実は、問題文を写し取るとき、aminō と間違えて、辞書を探し回ることに。気を付けなければ)

in は前置詞。in animōで「心の中で」

heac は代名詞、hic の女性単数主格か中性複数主格または対格。先行するなにかを指しているのかな。ここでは中性複数対格。「これらのことを」

Sī は 接続詞で、+ 直接法で単純な可能性を表す。「もし〜ならば」

et も 接続詞。「〜と〜」

mihi は1人称の人称代名詞 egō の単数与格。「私に」

tibi は2人称の人称代名詞 tibī の単数与格。「あなたに」

illīs は指示代名詞 ille の通性複数与格。「彼・彼女らに」

molestiam は 第1変化の女性名詞の melestia の単数対格でしょう。「煩わしさを」

dempseris は、ここまで今回の学習課題が出てきていないので、未来完了ですね。活用表をみると、-eris が見つかりました。未来完了は、完了幹+sumの未来変化 のようですが、この完了幹は「 動詞幹+s 」の例にあたりそうです。何となく第3変化っぽいので、動詞幹は demō→demere→dem- ですね。で、完了幹は、dems- なら良いのですが、demps- となるのは、そういう変化なのかな。demōで辞書引きして「<対格を>取り去る」

【逐語訳】

Sī(もし)haec(これらのことを)in animō(心の中で)cōgitāre(考えることを)volēs(あなたが望めば), et mihi(私に)et tibi(あなたに)et illīs(そして彼らに)dempseris(取り去るだろう)molestiam(煩わしさを). 

 

【訳例】

 もし、あなたがこれらのことを心の中で考えることを望めば、私とあなたと彼らから、煩わしさを取り去るだろう。

 

(古典の鑑賞)

テレンティウス「兄弟」の一節でした。今回も『テレンティウス ローマ喜劇集 5』(京都大学学術出版会)を図書館で借りてきて、読んでみました。訳は山下先生です。

久しぶりに読んでみて、ふと、古き良き時代の、松竹新喜劇を思い出しました。私は門外漢なので考えたことがなかったですが、演劇を志すような人は、ローマ喜劇なんかも、当然深く学ばれているんでしょうね。

人間、生きていれば、いろいろなことがあります。田舎で家庭を持ち実直に生きてきた兄が、都会で単身成功した弟のところに訪ねてきた、というだけで、何か一悶着ありそうですが、実は、弟は兄の長男を育てていて、しかもその子が若気の至りで、生活が乱れ、いろいろ問題を抱え込んでいて、まあ、離れて暮らす兄としては、何でそういうことになったのか、とストレスが溜まっているわけです。

弟の方は、兄の気持ちは百も承知ですが、もう自分の方は現実を受け止めて、息子の人生を支えていく覚悟は十分出来ている。で、まあまあ、と兄の憤まんを鎮めようというところです。

私は一人っ子なので、よくわかりませんが、兄弟だから言える、また、言ってしまう、ということもあるでしょう。神話や英雄の話ではない、二千年まえの、普通の人間の普通の暮らしが生き生きと描かれていることに、少し感動さえ覚えます。

課題文ですが、丸めて言うと、「兄ちゃんがそういう風に思ってくれたら、丸く収まるんだけどな」という感じですね。兄はこれまで通り実直に働いて、将来、息子のために財産を残してやれよ。自分は、たまたま財力があるので、息子の生活を支えてやる。それで、いいじゃないか、と。

そう言われると、「金の話じゃない」と言いたくなるのが人情ですが、まあ、なかなか楽しめる劇ですね。訳も良いですし。現代の私たちが、普通にふれて楽しめる文学作品と思います。

  

 

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第16回課題(2021.1.9)

練習問題18-1

Patria mea tōtus hic mundus est.
パトリア メア トートゥス ヒク ムンドゥス エスト)

Sen.Ep.28.4

セネカ「倫理書簡集」

Seneca: Epistulae Morales, Liber IIII

 

【学習課題】

代名詞1 代名詞的形容詞

 

【語彙と文法解析】

動詞は est。不規則動詞 sum の直接法・能動態・三人称単数現在。「である」

patria と mundus は名詞っぽい。たぶん両方とも主格として、そのまま辞書引き。

patria は 第1変化の女性名詞 patria の単数・主格(呼格)。ここでは主格で文の主語。「祖国」

mundus は 形容詞にもあるが、ここは名詞とみて、第2変化の男性名詞 mundus の単数・主格で、文の補語。「世界」

※この文では「私の祖国=この世界全体」なので、mundusを文の主語とみることも可能です。

mea は代名詞 meus の女性・単数・主格(呼格)。複数にもあるが、patriaにかかると思われるので、単数・主格でしょう。「私の」

tōtus は第1・第2変化の代名詞的形容詞 tōtus の男性・単数・主格で、mundusにかかる。「全体の」

hic は代名詞 hic の男性・単数・主格で mundus にかかる。「この」

 

【逐語訳】

 Patria(祖国は)mea(私の)tōtus(全体の)hic(この)mundus(世界)est(である).

 

【訳例】

私の祖国はこの世界全体である。

この世界全体が私の祖国である。

 

(古典の鑑賞)

セネカ『倫理書簡集』書簡28の一節でした。今回も『セネカ哲学全集5』(高橋宏幸訳、岩波書店)を図書館で借りてきて読んでみました。最近は、京都府立図書館で借りることが多くなりました。市立にある本は府立にあるし、府立にしかない本も多いので。建築も素敵ですし。

手紙の宛先であるルーキーリウスは、何か払拭したいことがあるようで、各地を転々と旅しているようすですが、セネカは「わが生地はただ一つの片隅にあらず。わが祖国はこの世界なり」という言葉の意味を理解するなら、あちこち旅行して気晴らししようとしても、空しいことだ、と諭します。

心が晴れないのは、自身の抱える課題に向き合わないからで、それがわかっていれば、どこにいても、為すべきこと=よく生きることを自分自身に問うことは出来るはずだと。

「人間到る処青山あり」という言葉もありますが、どこか通ずるところがありますね。

ところで、今回は、この手紙の最後のくだりが、目につきました。「君自身について、できるかぎりの有罪立証をしてみたまえ。君自身を査問してみたまえ。(中略)ときには自分自身につらくあたることだ。」

ストア派の重鎮、セネカらしい至言ですね。凡人はとかく「よく生きる」ことを忘れがちですから。(笑)

 

 

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第13回課題(2020.12.12)自習

練習問題15-2

Omnis feret omnia tellūs.
(オムニス フェレト オムニア テッルース)

Verg.Ecl.4.39

ウェルギリウス「牧歌」

P. VERGILI MARONIS ECLOGA QVARTA

 

【学習課題】

動詞2 不規則動詞

 

【語彙と文法解析】

動詞はferetで、第3変化の不規則動詞ferōの直接法・能動態、三人称単数未来。-etは第2変化の三人称単数っぽいので、feretだと辞書の形はfereōだけど、何となくferōかなと。結局、ferōの活用表を調べると、不規則動詞ferōの三人称単数未来でした。不規則動詞は、覚えておかないと・・・(汗)「産出するだろう」

tellūsは主語でしょう。そのまま辞書引きすると、第3変化の女性・単数・主格(呼格)。ここでは主格。「土地は」

omnisは第3変化形容詞 omnisの男性女性・単数の主格または属格。ここではtellūsにかかって女性単数主格。「すべての」

omniaの方は中性・複数の主格(呼格)または対格で、ここではferetの目的語で対格。「すべてのものを」(形容詞の名詞的用法)

 

【逐語訳】

omnis(すべての)feret(産出するだろう)omnia(すべてのものを)tellūs(土地は).

 

【訳例】

すべての土地はすべてのものを生み出すだろう。

 

(古典の鑑賞)

ウェルギリウス『牧歌』第四歌「黄金時代がやってくる」の一節でした。前回に引き続いて、今回も『牧歌・農耕詩』(河津千代訳、未来社)を手にとって、読んでみました。

第四歌は、ウェルギリウスの最初の保護者、ポリオに捧げた詩です。ウェルギリウスに「牧歌」を書くように勧めたのもポリオ。かねてより、ポリオに詩を贈ることを約束していたのですが、ちょうどこの頃、ブルンデシウムの協定でポリオの参加するアントニウス派との戦争が回避されたので、喜んだウェルギリウスは、ようやく約束を果たすことができたわけです。

「黄金時代」については、注釈が必要です。以下は、少し長いですが、河津千代の「詩人と皇帝」からの引用です。

「イタリアは大昔、サートゥルヌスという神に支配される王国であった。この神の治世はイタリアの黄金時代であって、人民は戦争を知らず、欲もなく、大地の与える豊かなみのりを楽しんでいた。もっと多くの収穫を得ようとして母なる大地の胸を鋤で切り裂いたり、軍艦や商船を海に浮かべて、海の精の静かな住まいをかき乱したりすることもなかった。(中略)クマエの巫女の予言によれば、人間の歴史は百十年を一世紀として十世紀の間悪い方へ向かい、第十世紀の最後まで来た時に、ふたたび最初の黄金時代に」戻るとされ、「その時代の扉は、ポリオよ、あなたが執政官である間に開かれるのだ」と、ポリオをたたえつつ、ウェルギリウスは歌っているのです。

実は第四歌の詩の中で、ウェルギリウスは「その時代の扉」を開くことになる子を、早く生まれさせたまえと、祈るのですが、後に「その子」こそイエス・キリストの誕生を予言したものではないかと、「はてしないもない議論をまきおこした」そうです。

ともあれ、課題文ですが、最初、土地が作物を実らせる、というようなことを言っているのかと思ったのですが、これは言わば「生産至上」ともいうべき人間の作為を排した、かつてのイタリアの黄金時代における、自然そのものの恵みを意味しているのでしょうね。

河津訳で、「すべての土地が自らすべてを生み出し」と「自ら」を補っているのは、そういう文脈なのかなと、またひとりで頷いてしまいました。(笑)

 

第12回課題(2020.12.5)

練習問題14-3

Carpent tua pōma nepōtēs.
(カルペント トゥア ポーマ ネポーテース)

Verg.Ecl.9.50

ウェルギリウス「牧歌」

P. VERGILI MARONIS ECLOGA NONA

 

【学習課題】

動詞2 直接法・能動態・未来

 

【語彙と文法解析】

動詞は carpent でしょう。ent は活用語尾として、capiō(つかむ)から類推して、carpō で辞書引き。
carpent は、第3変化動詞 carpō(摘む)の直説法・能動態・未来の三人称・複数・未来形。「摘むだろう」

tua は所有形容詞 tuus の、二人称・単数・女性。あなたの。

tua は二人称単数の所有形容詞 tuus の中性・複数・対格。pōmaにかかり性数格がpōmaに一致する。「あなたの」
所有形容詞 meus, tuus, suus, noster, vester は各々、性数格で変化するんですね。何かから派生した形容詞の格変化、良く忘れます。(汗)

Number Singular   Plural
Case / Gender Masculine Feminine Neuter Masculine Feminine Neuter
Nominative tuus tua tuum   tuī tuae tua
Genitive tuī tuae tuī tuōrum tuārum tuōrum
Dative tuō tuō tuīs
Accusative tuum tuam tuum tuōs tuās tua
Ablative tuō tuā tuō tuīs
Vocative tue tua tuum tuī tuae tua

[出典]https://en.wiktionary.org/wiki/tuus

pōma は carpō の直接目的語で対格。-a で終わる対格は第2変化 um型か第3変化 us型の中性・複数だったので、とりあえず pōmum で辞書引き。
pōma は第2変化の中性名詞 pōmum(果実)の複数・主格(呼格)または対格。ここでは対格。「果実を」

nepōtēs は文の主語で、名詞の主格。主格が ēs で終わるのはおそらく第3変化で代表選手は homō。nepōt で辞書引きしても該当なし。1字削ってnepō にしてみるとnepōs がヒット。電子辞書は、前方一致でリストしてくれるので助かります。
nepōtēs は、第3変化の共性名詞 nepōs(孫)の複数・主格。「孫たちが」

 

【逐語訳】

 Carpent(摘み取るだろう)tua(あなたの)pōma(果実を)nepōtēs(孫たちが).

 

【訳例】

あなたが栽培した木の果実を孫たちが摘み取るだろう。

 

(古典の鑑賞)

ウェルギリウス『牧歌』第9歌「町へ行く道」の一節でした。今回は前に手に入れた愛蔵書『牧歌・農耕詩』(河津千代訳・未来社)を「これこれ」と本棚から取り出して読んでみました。ラテン語初心者の、至福の時です。(笑)

この課題、1年半前にも取り組んだのですが、今回は、韻律を考えてみました。そういう気持ちになるところが、やはり少しラテン語が身近になってきたんですね〜。

原文は、以下の通り。

Īnsere, Daphni, pirōs: carpent tua pōma nepōtēs."  

Īnsere は第3変化動詞 īnserō(接ぎ木する)の命令法・能動態・現在形の二人称・単数。「あなたが接ぎ木しなさい」

Daphni(Daphnis)は伝説の人名でダプニス。メルクリウスの子で牧歌の創始者とされる。

pirōs は第2変化の女性名詞 pirus(梨の木)の複数・対格。「梨の木を」

<韻律分析>

Īn-se-re,| Daph-ni, pi|rōs: carp|ent tu-a | pō-ma ne|pō-tēs."  

(インセレ|ダプニ ピ|ロース:カル|ペント トゥア|ポーマ ネ|ポーテース)
 長短短  長短短   長長     長短短     長短短   長長

昨年秋には『詩人と皇帝』(河津千代)を読んでみて、詩人(ウェルギリウス)と皇帝(オクタウィアーヌス)の人間関係も何となく分かってきたので、やはりこの詩は、友人であったガルスなどの尽力で土地没収を免れた後で、懐古的に書かれたもので、この詩をもって皇帝に土地没収をやめるよう(勇気を持って)諭したというのとは、ちょっと違うなと思えてきました。

なんて、ひとりで頷いたりしてみるもの、ラテン語学習の楽しみですね。

 

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第10回課題(2020.11.21)

練習問題12-4

Omnium rērum principia parva sunt.
(オムニウム レールム プリンキピア パルウァ スント)

Cic.Fin5.58

キケロー「善と悪の究極について」

Cicero: de Finibus V

 

【学習課題】

名詞と形容詞2 第3変化形容詞

 

【語彙と文法解析】

動詞はsuntで、不規則動詞sumの直説法・能動態・三人称複数現在形。「〜である」

補語はparvaで、第1・第2変化形容詞parvusの中性・複数・主格。主語principiaに一致。「小さい」

主語はprincipiaで、第2変化名詞principiumの中性・複数・主格(呼格)または対格。ここでは主格。「始まり」

rērumは、第5変化名詞rēsの女性・複数・属格。「物事の」

omniumは、第3変化形容詞omnisの女性・複数・属格。rērumに一致。「すべての」

 

【逐語訳】

Omnium(すべての)rērum(物事の)principia(始まりは)parva(小さい)sunt(〜である).

 

【訳例】

すべての物事の始まりは小さい。

 

(古典の鑑賞)

キケロー「善と悪の究極について」第5巻の一節でした。今回も『キケロー選集10』(永田・兼利・岩崎訳、岩波書店)を図書館で借りてきて読んでみました。

「善と悪の究極について」はキケロー晩年の一連の哲学的著作のひとつで、第1巻と第2巻はエピクロス派の、第3巻・第4巻でストア派の、そして第5巻ではペリパトス派の倫理学を批判的に紹介しています。

第5巻は、ペリパトス派ですが、ペリパトス派とは、アリストテレス学派で、逍遙(しょうよう)学派とも言われています。ちなみに、ペリパトスとは「木陰の遊歩道」を意味するギリシア語ということで、京都の「哲学の道」を連想しますね。

以前の投稿でも触れましたが、この課題文のところの「たしかに、あらゆる事物は始まりにおいては小さいが、・・・」の文は、唐突な感じがしますので、おそらくアリストテレスが『政治学』の中で説いた「国家の運営とその運営の理論」についての考察を念頭に論を運んでいるのでしょう。

話は逸れますが、実は、私のラテン語学習熱も、もともとはギリシャ哲学への憧憬から始まっています。ある本で「ex nihilo nihil」--このラテン語のもとになったメリッソスの命題として「何もあらぬものからは生じない」という言葉がギリシャ語で紹介されていたのですが、これが読めない・・・。

前回のラテン文法初級クラスの講座の中で、山下先生が来春に出版される『しっかり学ぶ初級古典ギリシャ語』(堀川宏著、ナツメ社)というテキストの紹介をされていましたので、密かに楽しみにしているところです。

 

第8回課題(2020.11.7)

練習問題10-5

Facit indignātiō versum.
(ファキト インディグナーティオー ウェルスム)

Juv.1.79

ユウェナーリス「風刺詩」

Juvenal I

 

【学習課題】

名詞と形容詞2 第4変化名詞

 

【語彙と文法解析】

動詞はfacitで、第3変化動詞Bのfaciōの直説法・能動態・三人称単数現在形。「作る」

versumは補語で、第4変化名詞versusの男性・単数・対格。「詩を」

主語はindignātiōで、女性・単数・主格(呼格)。ここでは主格。「義憤が」

 

【逐語訳】

Facit(作る)indignātiō(義憤が)versum(詩を).

 

【訳例】

義憤が詩をつくる。

 

(古典の鑑賞)

ユウェナーリス「諷刺詩」第1章の一節でした。今回も『ローマ諷刺詩集』(国原吉之助訳、岩波文庫)を図書館で借りてきて読んでみました。

第1章通読してみて、正直に言って、何が書かれているかよくは分からないのですが、詩人が怒っていることは分かります。(笑)

いや、本当は、怒るべきことがらを題材に詩を書いただけ、なのかも知れません。つい、ペンが走ってしまって追放となったオウィディウスの例もありますから。

ともあれ、詩人は「偉大な詩人ルーキーリウスが、競馬を走らせたのと同じこの原野を駆け回りたいと思い立」ち、叙情詩でも教訓詩でもない、諷刺詩を書いたのです。

実際、遅咲きだったユウェナーリスは、修辞学などを深く学び、ルーキーリウスやホラーティウスら先人よりも、さらに技巧的な詩を書いたようで、その美しい韻律を持つ警句は、シラーなど後世の多くの作家に影響を与えた、とのこと。

と言われると、その韻律を鑑賞してみたくなるのですが、今回はストンと落ちませんでした。(涙)

韻律がわかるようになると、詩吟と同じで、ラテン語を学ぶ喜びもより大きくなるように思うのですが・・・。

 sī nātūra negat, facit indignātiō versum

 「たとえ才能が否と言っても、義憤が詩を作る」

<韻律分析> ※六脚律

sī nā/tū-ra ne/gat, fa-cit / ind-ign/ā-ti-ō / vers-um
シー ナー|トゥーラ ネ|ガト ファキト|インディグナ|ーティオー|ウェルスム
長長    長短短    長短短     長長     長短長   長短

こういう時は、もちろん、知らないこと(分かっていないこと)があるはずなのですが、それが何なのか調べるのがむずかしい。ラテン語は、簡単には心を許してくれないです。

 

第7回課題(2020.10.31)

練習問題9-1

Cibī condīmentum famēs est.
(キビー コンディーメントゥム ファメース エスト)

Cic.Fin.2.90

キケロー「善と悪の究極について」

Cicero: de Finibus II

 

【学習課題】

名詞と形容詞2 第3変化名詞

 

【語彙と構文分析】

動詞はest。不規則動詞 sumの三人称単数現在形。

Cibīはおそらく属格と推測して語尾-īから、第二変化名詞cibusとして辞書引き。「食の」。男性・単数・属格。condīmentumにかかるのでしょう。

condīmentumとfamēsはどちらかが主語、どちらかが補語。

condīmentumは語尾-umが第2変化名詞の中性っぽいので、そのまま辞書引き。「香辛料」。中性・単数・主格(呼格)または対格。

famēsは第3変化名詞か第5変化。そのまま辞書引きすると、「空腹」。第3変化名詞famēsらしい。女性・単数の主格(呼格)または女性・複数の主格(呼格)か対格。

「食の香料は空腹である」か「空腹は食の香料である」ですが、後者だと意味が通るので、主語はfamēs。動詞が単数形なのでfamēsは女性・単数・主格。

したがって、一方のcondīmentumは文の補語で、対格。

 

【逐語訳】

Cibī(食の)condīmentum(香辛料)famēs(空腹は)est(である).

 

【訳例】

空腹は食の香辛料である。

空腹は食べ物の味付けである。

 

(古典の鑑賞)

キケロー「善と悪の究極について」第2巻の一節でした。今回も『キケロー選集10』(本多・兼利・岩﨑訳、岩波書店)を図書館で借りてきて読んでみました。

キケローはホラーティウスセネカよりはエピクロス派に批判的なので、エピクロス派=快楽主義のような、ある種の俗説を議論のベースにしているところが、やや残念なところです。

実は、エピクロスの「快」は「苦しみ」の対語で、例えば「空腹」という苦痛が解消されるなら粗末な食事であれ、贅沢なご馳走であれ、「快」の量に差は無いとします。後は、質の違いだけであると。

ちなみに、課題文の「空腹こそが食べものの味つけである」というのは、訳注によると、ソクラテスの言葉ということです。

要は、どうすれば「苦しみ」から解き放たれ、平穏に生きることができるだろうか、という哲学的なテーマにどう応えるかなのですが、エピクロスはともすれば際限の無い苦しみをもたらす精神的なものより、自然や感覚に依拠して、苦しみを(ようやく)脱した状態=快が幸福の基準であるとしました。

エピクロスは、さらに踏み込んで、「もろもろの欲望のうち、充足されなくてもわれわれを苦しみへ導くことのないような欲望はすべて、必須ではない。」(主要教説)と説くのであって、むしろストイックとも言えるでしょう。

まあ、こうしたことは、キケローは本当は理解していたと思うのですが、エピクロスの主張は、最後に、こう帰結します。

「幸福と祝福は、財産がたくさんあるとか、地位が高いとか、何か権勢だの権力だとがあるとか、こんなことに属するのではなくて、悩みのないこと、感情の穏やかなこと、自然にかなった限度を定める霊魂の状態、こうしたことに属するのである。」

「隠れて、生きよ。」(エピクロス 断片 その2)

命をかけて、国家への献身が最高の善であると説いたキケローが、エピクロスを認めるわけにいかないのも、分かるような気がしますね。